表紙 > 読書録 > 三国演義に載らなかった民間伝承『三国志外伝』

04) 花関索と鮑三娘、関銀屏

立間祥介・岡崎由美訳『三国志外伝』民間伝承にみる素顔の英雄たち
徳間書店1990年
を短縮してご紹介しています。

死せる諸葛のもう1つの策略

諸葛亮は、物欲にあざとい男たちに高額報酬を渡して、自分の死体の埋葬を命じた。
男たちは埋葬の仕事を終えると、気が緩んでバカ騒ぎをした。お互いの持ち金に目がくらみ、殺し合いを始めた。諸葛亮が葬られた場所は、永遠に秘密となり、敵に荒される心配がなくなった。湖北省の襄樊市。

草の名前で母と文通、姜維

魏から蜀に移った姜維。
魏は、姜維の母に命じて「当帰」という草を姜維に送らせた。姜維は「遠志」という草を送り返し、魏へ戻るつもりがないことを、母の迷惑にならないように伝えた。
「母知」という草は、姜維の故郷・隴山で常備薬になった。
安徽省のコウ県で採録したらしいです。

フィクションの代表、鮑三娘と関索

広漢の城外に、鮑三娘の墓がある。なぜか。
関索は、関羽が故郷を出奔したとき、まだ胎児だった。索氏に養育され、花氏に武芸を習ったので、花関索と名乗った。

『花関索伝』のネーミングの由来です。

鮑三娘は、鮑氏の三女だから、こう呼ばれた。賊にさらわれるところを、関索に助けられた。鮑三娘は、武芸を身に着けて、武将に成長した。諸葛亮は、関索と鮑三娘を頼もしく思った。

諸葛亮が南蛮征圧するとき、関索は先鋒となり、鮑三娘は葭萌関の守備を任された。
「一緒に居られないのだね」
夫婦が離れ離れになるから、関索は悲しんだ。
鮑三娘は、関索に説いた。
諸葛丞相が、私たちを認めています。義父・関羽さまの名誉のためにも、それぞれ頑張りましょう」

悲劇の物語にしたいのは分かる。その元凶を作ったのは、諸葛亮なのね。さすが法家は、夫婦の間柄すら「職務なので」の名目で割く。

関索は、戦地で落命した。
鮑三娘は、関索の死を乗り越え、健気に葭萌関を守り続けて、死んだ。鮑三娘が広漢に葬られたのは、彼女が死ぬまで任地を離れなかったからである。

関索が『演義』に合流するのは、少し遅れる。関索が登場するか否かで、版本の新古を判断できるという、とても重要な伝承人物。

四川省広漢県の博物館資料によるそうです。花関索にまつわる伝説は、貴州、雲南、四川で広く流布しているとか。

雲南で慕われる、関三小姐

関羽に三女が生まれた。張飛が、関銀屏と名づけた。
関羽は、呂布が紫金冠につけていた真珠を、この三女にプレゼントした。魔除けの力があり、阿斗にあげるには惜しかった品だ。
孫権が、
「関銀屏を、息子・孫登の嫁にほしい」
と言ったとき、関羽は、
「高望みが過ぎるわ!」
と一喝した。孫権は面目を潰した。

孫権が関羽を攻めた。関羽の荊州が陥落しそうになった。
「関銀屏さんは、劉備さまに救援を要請して下さい」
と理由をつけてもらい、関銀屏は荊州から益州に逃げた。
「荊州城は敗れても、関銀屏は命拾い」
と言われた。
しかし関銀屏は、関羽や関平の仇を雪ぎたいので、ろくに成都で食事を取らなかった。

張飛は関銀屏に衣装を贈るが、関銀屏は涙を流すばかり。
「きれいな装飾など要りません。父の仇をとりたい」
関銀屏は、趙雲に武芸を習った。
雲南で叛乱が起きたので、関銀屏は征圧に行くことになった。関銀屏は本心では、雲南より先に、孫権を討ちたい。だが関銀屏は、国家の方針に納得した。
「父母の仇(孫権)は、玄関から泥棒が入ったようなもの。いま雲南の叛乱は、裏庭が火事なっているようなものです。裏庭の火事を消せば、玄関から入った泥棒を捕まえることに、集中できるはずです。諸葛丞相は、それを見通しておられるのです」

火事を消している最中に、泥棒は逃げてしまうと思うが。火事のとき、住人に隙が出来るから、「火事場泥棒」が成立するわけで。
無茶な理屈で、関銀屏が雲南にくるのは、これが雲南で語り継がれている伝説だからです。理由は通らなくても、来てもらわねば、始まらない。

関銀屏は雲南を平定し、現地の人に慕われた。関銀屏が関羽からもらった真珠は、雲南の金蓮山に埋まっていて、いまでも光っている。 雲南省の曲靖県で採録したそうです。

以上で、蜀の伝説は終わりです。
『三国志外伝』の本で66%のページ数が割かれていました。
つぎは魏や呉です。