05) 関羽を葬った、曹操の真意
立間祥介・岡崎由美訳『三国志外伝』民間伝承にみる素顔の英雄たち
徳間書店1990年
を短縮してご紹介しています。
民間に人気のある蜀と違い、魏呉は少ないです。
曹操が荀彧を見つける
曹操には、参謀が足りなかった。
曹操は泰山廟で、名僧と会った。名僧は曹操に、錦の袋を渡した。
「曹操さん。名を隠さず、堂々とあなたを罵る人が現れたら、この錦の袋を開けなさい」
曹操は許昌を占領した。弟の曹仁は、許昌で略奪した。
3日後、城門に張り紙があった。
「曹操が許昌に来てから、民草は塗炭の苦しみだ」
張り紙には署名がある。
「許昌、荀彧」
それに、曹操が魏を建国する前は、「許」という名前であって、「昌」は付いていない。フィクションだと自白している。
曹操は、名僧の錦袋を思い出した。開けると、
「口を開けば午の刻(許)
ひしゃげた月に日が落ちる(昌)
十日の頭に草が生え(荀)
或の字にはひげ3本(彧)」
という文字クイズが書かれていた。文字クイズの答えは、許昌の門にあった署名と一致する名前である。
曹操は喜んだ。
「名僧の予言が、荀彧を招けと言っている」
曹操は荀彧を捜し求めた。
荀彧に批判された曹仁は、面白くない。曹仁は、荀彧を殺そうとした。曹操は、曹仁を叱りつけた。
「荀彧を殺すとは、私の腕を切り落とすのと同じことだ」
曹操は、荀彧を口説いた。
「荀彧さんは、私を罵った。だが、道理がとおっていれば、いくら罵られてもいいのです。私のために働いて下さい」
「いいえ、私は脚気を患っています」
「荀彧さんのために、名馬を引かせました。さあお乗りなさい」
荀彧は、曹操の臣となった。
曹操は荀彧に、人材登用の方針を聞いた。
「家柄を問わず、能力がありさえすれば、採用すべきです」
曹操が発案し、荀彧がちょっと抵抗する、という構図が正史だと思う。
曹操のほうが驚いた。
「人徳はどうでもいいのですか」
「才能と人徳の両方がほしい、と選り好みしている場合ではありません。いま漢の世では、才能も学問もない宦官の子弟が、役人になっているのですよ」
曹操は荀彧に従い、中原を平定した。
河南省の許昌県で採録したそうです。
曹操の三顧の礼
曹操は新野で敗北した。程昱が言った。
「新野で敗北したのは、徐庶が劉備に味方しているからです。もし曹操さまが許してくれるなら、私は諸葛亮を招きたいと思います」
「よし、諸葛亮を口説いてみよう」
まず曹洪が訪問した。諸葛亮は居留守を使った。
つぎに程昱が訪問した。面会を断られた。
曹操は、3回目に自ら訪問した。
「あなたは諸葛亮さんではありませんか」
「いいえ、私は田舎者です」
「諸葛亮さんの力量を聞いておりました。私・曹操の事業を手伝ってくれませんか」
「曹操さまが、こんな山家を訪れたら、お名前にキズがつきます。さあ、お引取り下さい。はっはっは」
「ぬぅ諸葛亮、私を笑いものにするか。許せない」
世間の人が、しゃれて言った。
「曹操が孔明を招く。そのこころは、誠意がない」
「程昱が諸葛を推挙する。そのこころは、見る目がない」
湖北省の襄樊市で採録したそうです。
曹操が決めた、関羽の墓の位置
孫権は、関羽の首を洛陽に届けた。
曹操は、孫権の意図を見抜いた。
「孫権め、関羽の首を私に送り、劉備の怒りをこちらに向けるつもりだな。そうはいくか。盛大に関羽の首を弔ってやれ」
孫権は怒り、曹操に使者を立てた。
「関羽を殺すという共同作戦を取りながら、曹操さんは、劉備の味方をするのですか。呉を孤立させるつもりですか」
曹操は笑った。
「孫権は、何も分かっていない。私が関羽の墓を作ったのは、伊水が南から流れ、洛水が西から流れる場所だ。2つの川が合流する場所だから、水かさが増せば、あっと言う間に関羽の墓は水没するだろう。初めから水没させてやるつもりで、関羽を葬ったのだ
」
関羽の墓から、関羽の亡霊が飛び出した。
亡霊が息を吹くと、伊水と洛水がゴウゴウ鳴って、流れを変えた。関羽の墓は、水没の危機を免れた。
曹操は関羽を恐れ、墓に手出しをしなかった。
河南省洛陽市の関林で採録したそうです。観光地の縁起だな。
つぎは、華佗が貂蝉をサイボーグにする話など。