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09) 関羽討伐は国家最大の祭典

『三国志』の最終回です。

吳書十二/虞翻

-1320- 孫權以為騎都尉.翻數犯顏諫爭,權不能悅,又性不協俗,多見謗毀,坐徙丹楊涇縣.呂蒙圖取關羽,稱疾還建業,以翻兼知醫術,請以自隨,亦欲因此令翻得釋也.後蒙舉軍西上,南郡太守麋芳開城出降.蒙未據郡城而作樂沙上,翻謂蒙曰:「今區區一心者麋將軍也,城中之人豈可盡信,何不急入城持其管籥乎?」蒙即從之.時城中有伏計,賴翻謀不行.關羽既敗,權使翻筮之,得兌下坎上,節,五爻變之臨,翻曰:「不出二日,必當斷頭.」果如翻言.權曰:「卿不及伏羲,可與東方朔為比矣.」

ただ孫権のタイミングを言ってるだけだ。


魏將于禁為羽所獲,繫在城中,權至釋之,請與相見.他日,權乘馬出,引禁併行,翻呵禁曰:「爾降虜,何敢與吾君齊馬首乎!」欲抗鞭擊禁,權呵止之.後權于樓船會臣飲,禁聞樂流涕,翻又曰:「汝欲以偽求免邪?」權悵然不平.[一]

関羽に降った于禁が、孫権に飼われます。

吳書十三/陸遜

呂蒙稱疾詣建業,遜往見之,謂曰:「關羽接境,如何遠下,後不當可憂也?」
蒙曰:「誠如來言,然我病篤.」
遜曰:「羽矜其驍氣,陵轢於人.始有大功,意驕志逸,但務北進,未嫌於我,有相聞病,必益無備.今出其不意,自可禽制.下見至尊,宜好為計.」
蒙曰:「羽素勇猛,既難為敵,且已據荊州,恩信大行,兼始有功,膽勢益盛,未易圖也.」
蒙至都,權問:「誰可代卿者?」蒙對曰:「陸遜意思深長,才堪負重,觀其規慮,終可大任.而未有遠名,非羽所忌,無復是過.若用之,當令外自韜隱,內察形便,然後可克.」權乃召遜,拜偏將車右部督代蒙.

関羽に警戒されないよう、呂蒙の後任は陸遜に。


-1344- 遜至陸口,書與羽曰:「前承觀釁而動,以律行師,小舉大克,一何巍巍!敵國敗績,利,以逞其心.雖云師老,猶有驍悍.且戰捷之後,常苦輕敵,古人杖術,軍勝彌警,願將軍廣為方計,以全獨克.僕書生疏遲,忝所不堪,喜鄰威德,樂自傾盡,雖未合策,猶可懷也.儻明注仰,有以察之.」#在同盟,聞慶拊節,想遂席卷,共獎王綱.近以不敏,受任來西,延慕光塵,思稟良規.」又曰:「于禁等見獲,遐邇欣歎,以為將軍之勳足以長世,雖昔晉文城濮之師,淮陰拔趙之略,蔑以尚茲.聞徐晃等少騎駐旌,闚望麾葆.操猾虜也,忿不思難,恐潛增羽覽遜書,有謙下自託之意,意大安,無復所嫌.遜具啟形狀,陳其可禽之要.權乃潛軍而上,使遜與呂蒙為前部,至即克公安﹑南郡.遜徑進,領宜都太守,拜撫邊將軍,封華亭侯.

へりくだった手紙で油断させ、関羽をだました。
関羽は、劉備が自分を構ってくれないから、不満だった。教えを乞う陸遜の手紙にコロッと騙されたのは、承認されない不満ゆえに、自尊心の強さが極端に前面に出てたからかな。

吳書十五/全琮

-1381- 建安二十四年,劉備將關羽圍樊、襄陽,琮上疏陳羽可討之計,權時已與呂蒙陰議襲之,恐事泄,故寢琮表不答.及禽羽,權置酒公安,顧謂琮曰:「君前陳此,孤雖不相答,今日之捷,抑亦君之功也.」於是封陽華亭侯.

全琮が呂蒙と同じことを言ったが、2番煎じ&漏洩を怖れて黙殺。しかし孫権は、全琮のアイディアも覚えていた。「関羽を討ったのは、キミの功績でもあるんだ」

吳書十六/潘濬

孫權殺關羽,并荊土,拜濬輔軍中郎將,授以兵.

吳書十七/是儀

呂蒙圖襲關羽,權以問儀,儀善其計,勸權聽之.從討羽,拜忠義校尉.儀陳謝,權令曰:「孤雖非趙簡子,卿安得不自屈為周舍邪?」

孫権は、是儀に関羽を捕える作戦を聞いた。成功後に孫権が、なんか故事を引いてるなあ。

吳書十八/吳範

權與呂蒙謀襲關羽,議之近臣,多曰不可.
權以問範,範曰:「得之.」
後羽在麥城,使使請降.
權問範曰:「竟當降否?」
範曰:「彼有走氣,言降詐耳.」
權使潘璋邀其徑路,覘候者還,白羽已去.
範曰:「雖去不免.」問其期,曰:「明日日中.」
權立表下漏以待之.
及中不至,權問其故,範曰:「時尚未正中也.」
頃之,有風動帷,範拊手曰:「羽至矣.」須臾,外稱萬歲,傳言得羽.

関羽の捕縛を、占い師のように見通していた。
他の人は、捕縛するのがムリだというのに、呉範は捕縛を実況中継した。


孫呉にとっては、関羽捕縛&荊州獲得は、国家が創立以来でいちばん大きく飛躍したできごとです。また以後、これほどの大イベントはない。
そりゃあ、あちこちにお祝いに記事が散らばるよね。関わる各人の前後の動きは、大切に記録されるわけだ。戦場は関羽の周囲の1点だけだっただろうが、国中の武力と知力を傾けたプロジェクトでした。

次回『後漢書』と『晋書』です。