雑感 > 『魏の武王 曹操』シナリオ案3

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第11回 袁紹が河北支配を確立

劉虞の擁立計画

董卓からの使者の処遇をめぐり、同盟軍に最初の亀裂。天下の信望をうしない、内部分裂を誘発できるかも知れない、恐るべき謀略。

『范書』献帝紀:大鴻臚韓融 、少府陰脩、執金吾胡母班、將作大匠吳脩、越騎校尉王瓌安集關東,後將軍袁術、河內太守王匡各執而殺之,唯 韓融獲免。
『范書』袁紹伝:卓乃遣大鴻臚韓融、少 府陰循、執金吾胡母班 、將作大匠吳循、越騎校尉王瓌譬解紹等諸軍。紹使王匡殺班、瓌、吳 循等,袁術亦執殺陰循,惟韓融以名德免。

ふたつで、事件の経緯はだいたいわかる。

◆陰脩のこと
陰脩は、潁川太守となり、荀彧・鍾繇・荀攸らを用いた。
鍾繇伝にひく謝承『後漢書』に、「謝承後漢書曰:南陽陰脩為潁川太守,以旌賢擢俊為務,舉五官掾張仲方正,察功曹鍾繇、主簿荀彧、主記掾張禮、賊曹掾杜祐、孝廉荀攸、計吏郭圖為吏,以光國朝」とある。
陰脩は、袁術に殺された。「陰脩を殺した袁術」に対して、荀彧らが反発をいだいて、曹操のもとに加入する。陰脩の殺害場面を描く必要はないが、彼らの動機としてはアリだろう。
『范書』袁紹伝にひく、『楚國先賢傳』によると「陰循字元基,南陽新野人也。」

胡母斑伝

とくに胡母斑の死は、諸将に動揺をあたえた。p116
義弟の胡母斑を殺した王匡は、2人の遺児を抱きしめ、号泣した。張邈が、袁紹に不信感をいだく。 追い撃ちをかけるように劉岱が橋瑁を殺す。

橋瑁は、橋玄の族子である。橋玄は、曹操の恩人。橋瑁・張邈が、反董卓の起兵をくわだてたのだが、石井先生は橋瑁をスルーする。だから、詳しくはやりません。曹操は、現場でせっせと戦うのみで、伝聞に、頼るべき張邈が起兵したとか、堂室でお目に掛かった?橋瑁が参加しているとか聞いて、期待する。橋瑁が死んだと聞いてガッカリするが、「私にできることは、まだない」と挫折感を味わう。


『范書』列伝 第五十七 党錮列伝に、「度尚、張邈、王考、劉儒、胡母班 、秦周、蕃嚮、王章為『八廚』」とある。胡母斑は、張邈とともに八廚の一員だった。張邈と知り合いという設定で、大過ないだろう。

『范書』袁紹伝に、『漢末名士錄』曰:「 胡母班 字季友,泰山人,名在八廚。」とある。泰山のひとと分かり、やはり八廚である。
『陳志』袁紹伝に、『漢末名士錄』曰:班字季皮,太山人,少與山陽度尚、東平張邈等八人並輕財赴義,振濟人士,世謂之八廚。おなじ。


謝承書曰:「班,王匡之妹夫。匡受紹旨,收班繫獄,欲殺以徇軍。班與匡書,略曰:『足下拘僕於獄,欲以釁鼓,此何悖暴無道之甚者也?僕與董卓何親戚?義豈同惡?足下張虎狼之口,吐長蛇之毒,恚卓遷怒,何其酷哉!死者人之所難,然恥為狂夫所害。若亡者有靈,當訴足下於皇天。夫婚姻者禍福之幾,今日著矣。曩為一體,今為血讎,亡人二女,則君之甥,身沒之後,慎勿令臨僕尸骸。』匡得書,抱班二子哭,班遂死於獄。」

『范書』袁紹伝にひく謝承『後漢書』に、胡母斑は、王匡の妹の夫である。王匡は、袁紹から、胡母斑の殺害を命じられる。
王匡は、袁紹の意思を受け、胡母斑を殺して、軍を鼓舞しようとした。胡母斑は王匡に書を与えた。「私は董卓と親戚ではない。道義として悪事に加担するはずがない。董卓への怒りを、私に転嫁するのはひどい。あなたは虎狼のように口をひろげ、長蛇のように毒を吐く。死は避けられぬが、狂夫に殺されたくない。もし霊があれば、きみを皇天に訴える。婚姻は禍福のきっかけというが、今日、明らかになった(袁紹は姻族を理由に、王匡に胡母斑の殺害を命じた)。以前は一体であり、いまは血仇である。私には2人の娘がいる。きみのメイである。私が死んでも、死骸を娘に見せるな」と。王匡は胡母斑を殺して、妹の子(胡母斑の子)を抱きしめて泣く。

『陳志』武帝紀に、

謝承後漢書曰:匡少與蔡邕善。其年為卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡 母班。班親屬不勝憤怒,與太祖并勢,共殺匡。

王匡は蔡邕と仲がよく、董卓軍に敗れて泰山ににげ、数千の強兵をあつめて、張邈と合わさろうとした。王匡は、先に執金吾の胡母斑を殺した。胡母斑の親族は、憤怒にたえず、曹操とともに王匡を殺した。

胡母斑は泰山のひと(王匡が逃げた先)。胡母斑は八廚(王匡が兵を合わせようとした張邈と同じグループ)。しかし王匡は、袁紹に命ぜられて、胡母斑を殺した。胡母斑の親族は、王匡を恨んだ。
董卓による離間の計が、成功している!
これほど胡母斑と近しい王匡に、なぜ袁紹は、胡母斑を殺害させたか。恨みを、親族のなかで循環させ、いさかいを外部に漏らさないようにしたか。袁紹の施策は、内紛をあおる傾向がないか。沮授から軍権を奪って、分け与えたりとか。


何進がめした、泰山の弩将・王匡

このサイト内で、『陳志』武帝紀をやったところから引用。
河内太守王匡、

英雄記曰:匡字公節,泰山人。輕財好施,以任俠聞。辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發強弩五百西詣京師。會進敗,匡還州裏。起家,拜河內太守。

河内(郡治は解県)太守の王匡が、起兵した。
『英雄記』はいう。王匡は泰山の人。財を軽んじて、施した。任侠をもって聞こえた。何進にめされた。徐州の強弩500をつれて、洛陽にむかう。

財を軽んじたり、任侠だったり。袁紹の奔走の友につうじる。方詩銘氏が、言いまくっていたことだ。
方詩銘氏の「世族、豪傑、遊侠 ― 袁紹的一個側面」を翻訳する
方詩銘曰く、曹操と袁紹に対抗するため、張邈は有力な支援をもとめた。張邈は、兗州豪族の代表的な人物・王匡の支援をもとめた。張邈と王匡は、財を軽んじるから、同じタイプの遊侠の士だ。洛陽で、張邈と王匡は友となったはずだ。董卓との戦争で、王匡は河内太守となり、泰山兵をひきいた。泰山は、兗州に属する郡だ。王匡は泰山の強兵をひきいて、張邈と連合した。曹操にとって、腹心の患だ。兗州の安定にとって、脅威である。
曹操は、王匡に対策するため、王匡に宿縁がある豪族を利用した。胡母斑の家族である。胡母斑の家族は、王匡を仇敵だと狙う。家族は、王匡と張邈が連合することを、容認できない。兗州豪族は、内部に矛盾がある。曹操は、これを利用した。曹操と胡母斑の家族は、軍勢をあわせた。曹操らは、王匡を殺すだけでなく、張邈をも攻撃した。王匡と張邈の連合を解除し、曹操は腹心の患をのぞいた。
王匡(と辺譲の死)は、曹操に反対する兗州豪族にとって、シンボルになった。兗州豪族は、完全に曹操に屈服しない。曹操に反対する連合をくんだ。
『後漢書』何進伝はいう。何進は、泰山の王匡と、東郡太守の橋瑁をめした。盧弼は考える。王匡がひきいたのは、泰山の兵だ。泰山は、徐州でなく兗州だ。裴松之がひいた『英雄記』は(徐州となっているが)誤りだ。

何進がやぶれ、王匡は州里にひき返した。起家して、河内太守となった。

謝承後漢書曰:匡少與蔡邕善。其年為卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡母班。班親屬不勝憤怒,與太祖並勢,共殺匡。

謝承『後漢書』はいう。王匡は、蔡邕と仲がよい。董卓に敗れて、王匡は泰山にかえった。強兵をあつめ、張邈とあわさる。王匡は、執金吾の胡母斑を殺した。胡母斑の親族は、王匡に怒った。

方詩銘氏は、言った。曹操は、不安定な兗州を治めるために、王匡と、胡母斑の遺族の対立に漬けこんだと。この解釈で、あっているのだろうか。抄訳した。
方詩銘氏の曹操論「曹操は兗州に拠る」等を翻訳する

胡母斑の遺族は、曹操とあわさり、王匡を殺した。

盧弼は考える。『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹と王匡は、河内にいた。『魏志』董卓伝はいう。河内太守の王匡は、泰山の兵をのこし、河陽の津にいた。董卓の命をねらったと。


『陳志』巻二十三 常林伝に、常林(河内の温県のひと)のおじが、河内太守の王匡に取り締まられ、死にかける話がある。王匡は、権力を確立するために、属県に書生を送り込んで、密告させた。常林のおじが、これに引っ掛かったのだ。しかし常林の弁護によって、助かった。
王匡が、董卓と戦うために、郡内の粛清に取り組んだことが分かる。そして常林が訴えた相手が、王匡と同県の胡母彪という人物。胡母斑と関係がありそう。姻族であろうか。

と、盧弼の注釈から、王匡の記事を見つけたけれど、石井先生が取り扱っていない。話をいたずらに拡散させてはいけない。


劉虞のこと

劉虞のことは、p117-p120
劉虞と袁紹と袁術を知るために、『陳志』公孫瓚伝
『范書』劉虞伝を読んだときのPDF

後漢の人々にとって、光武帝はヒーローだった。袁紹や袁紹などは、悪くいえば、光武帝にかぶれていたふしがある。ふたりより、よほど自由な発想のもちぬしだった曹操や劉備でさえ、光武帝の幻影から逃れることができなかった。即位前の光武帝とおなじ条件(五世孫)をもつ劉虞には、関東の支配者として、充分な資格があると思われた。p119
袁術は、『魏志』袁術伝にひかれる『呉書』で、堂々たる正論で返す。曹操も、ほとんど同じ立場から反論する。袁紹が配慮したのは、袁術の意向。

初平二年春、袁紹が劉虞に即位を勧進。録尚書事となり、承制封拝を頼む。

劉虞伝:馥等又請虞領尚書事,承制封拜,復不聽。遂收斬使人。
韓馥が勧めている。袁紹は、なんでも他人にやらせるw

こののち、河内と酸棗の軍が無力化する。

群雄割拠

張衡『南都賦』には、長安・洛陽とならぶ大都会=宛城の繁栄がうたわれる。袁術は、光武帝の兄・劉縯が、南陽で起兵したことを踏まえ、ロイヤルロードを辿ろうとした。p121

袁紹は、兵糧を韓馥に頼るから、長期化すれば自滅は必至。p123
初平二年秋、上党で観望していた張楊、亡命した於夫羅、韓馥の将・麹義が、河内の袁紹軍に合流する。韓馥は警戒して、兵糧を止めた。
袁紹は、「白馬長史」公孫瓚に密書を送り、韓馥の冀州を攻めさせる。袁紹は、延津に進む。

公孫瓚は、従弟の公孫越を袁術に覇権して、覇権争いに参入しようとした(p123)。公孫瓚は、袁術に協力し、袁紹にも協力している。この時点では、どちらの味方でもない。というか、袁紹・袁術は、初平二年の段階では、分裂してない。

高幹・辛評・荀諶・郭図を送り、韓馥を説得。冀州を得ると、沮授が「河北を制圧せよ」という(『魏志』袁紹伝)。田豊・審配を用いる。

そのころ、青州黄巾が、勃海郡に侵入。袁紹の要請を受け、公孫瓚が迎撃した。

公孫瓚は、袁紹の意を受けて動いてる。石井先生は、軍功によって名声を高めたがる人物として、公孫瓚を取り扱う。

張楊・於夫羅は、袁紹軍を離脱。董卓から、建議将軍・河内太守を授けられる。関東と関西の通路をおさえ、いっぽうの群雄として、政局のキャスティング・ボードをにぎる。

曹操が献帝を得るとき、張楊が影響する。石井先生が「張楊は、重要な人物だぞ」と強調するから、作中で取り扱おう。
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝


同盟軍は、袁紹が周喁を豫州刺史にして、孫堅を襲ったこと、この戦いで公孫越が死んだことで、袁術と公孫瓚、袁紹と劉表、という構図になる。
公孫瓚は、冀州の諸県を攻略する。厳綱・田楷・単経・劉備を送り込む。

かつて将校として、いっしょにした、曹操と劉備。かたや袁紹の手先、かたや公孫瓚の手先となって、前線で戦っている。そういうランクの感覚。

初平三年、袁紹が公孫瓚を界橋で破る。公孫瓚は、陶謙を味方にして立て直し、龍湊で、袁紹・曹操の連合軍とにらみ合う。翌年=初平四年、太僕の趙岐に和解させてもらう。

初平四年三月、袁紹が薄落津(鉅鹿県の西)にきたころ、本拠地の鄴で、留守部隊が反乱。黒山賊をひきいれる。朝廷が任命した、冀州牧の台寿を引き入れる。李傕と、冀州の土着勢力が手を結んだ、袁紹の追い落としのクーデター。

『范書』袁紹伝:三月上巳,大會賓徒於薄落津 。聞魏郡兵反,與黑山賊干毒等數萬人共覆鄴城,殺 郡守。坐中客家在鄴者,皆憂怖失色,或起而啼泣,紹容貌自若,不改常度。〔獻帝春秋曰:「紹勸督引滿投壼,言笑容貌自若。」〕……これに基づいて、p127が書かれている。

『魏志』袁紹伝にひく『英雄記』に、「紹到,遂屯斥丘,以陶升為建義中郎將。乃引軍 入朝歌鹿場山蒼巖谷討于毒,圍攻五日,破之,斬毒及長安所署 冀州牧壺壽」とある。石井先生は「台=臺 壽」とするが、中央研究院では「壺壽」である。

ともあれ戦況は、この『英雄記』を見ればよいことが分かった。


公孫瓚は、劉虞に兵糧を頼っていたので(冀州奪取直前の、袁紹のような情況 p127)劉虞を破った。興平二年、鮮于輔・閻柔により、「公孫瓚の幽州支配は、あっけなく崩壊」した。覇権争いから脱落。

公孫瓚は、曹操と龍湊で戦ったことだけを触れればよい。


そのときの曹操

ぼくは思う。このとき曹操は、何をしていたか。武帝紀では、曹操は劉虞のことに反対し、袁紹が印綬をぶらさげたことに怒り、袁紹を殺そうと決意する。これは、魏の建国神話であり、石井先生は顧みない。
つぎの章で、p132「初平二年七月、曹操は、冀州を奪取したばかりの袁紹の陣営にあった」とする。案外、曹操は、袁紹が冀州を奪うために戦い、冀州の士大夫を登用するとき、そばにいたのではないか。河北政権が成り立つのを、その一員としてジリジリしながら、手伝っていたのでは。

袁紹が韓馥から冀州を奪ったとき、曹操の居場所は袁紹軍のなか。石井先生の『曹操』にあり、史料を再読すると、やはりそう。「曹操は、劉虞擁立に反対した時点で、袁紹と敵対」という印象は、歴史家によるミスリード。
すると袁紹が、河北の人材(沮授・田豊・審配)を登用したとき、曹操は嫉妬・焦燥にまみれながら、その様子を見ていたことになる。「いつか鄴城の主になりたいな」と、他のどこでもない鄴城で思ったとしても不思議じゃない。荀諶・荀彧と会う機会もゼロじゃない。郭図・郭嘉ペアに会う機会もあるかも。


武帝紀:(初平)二年春,紹、馥遂立虞為帝,虞終不敢當。夏四月,卓還長安。 秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。黑山賊于毒、白繞、眭固等眭,申隨反。十餘萬眾略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞于濮陽,破之。袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。

黒山賊が、魏郡(袁紹の本拠地)、東郡を攻めた。曹操は、袁紹軍の一翼として、東郡に向かう。せっかく袁紹が得た領土=冀州を守るため、前線に飛んだという感じだろう。
石井先生は、章を改めて曹操の話をするので、時系列が前後する。袁紹が、いかに河北支配を確立したか、というのが、曹操の河北支配の伏線であり、綿密に触れられている。そういう構成である。

董卓の最期

董卓は、易姓革命を模索していた。p128
梁冀も、王莽と同じように、周公の故事をもちだした。危険信号を察知した桓帝のクーデターがなければ、あんがい梁氏の王朝が実現したかも知れない。董卓は、王莽と曹操のあいだ。

梁氏の王朝に現実味を見出す。これは、原作の特徴なので、作品に盛り込んでいく。


董卓に権限が付される過程は、p129
相国(董卓は中平六年年十一月)は、蕭何・曹参しか前例がない。太師(董卓は初平二年二月)は、太公望呂尚と周公姫旦がついた、伝説的な宰相職。尚父は太公望の尊称。
賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿(董卓は中平六年十一月)は、蕭何の故事。蕭何・王莽・梁冀が許されたことがある。
これらは、改革の抱負をもった蔡邕の発案。

扶風の郿県に「万歳塢」をつくる。長安城と同じサイズ。革命の直前に出現する二重政府の発想は、鄴県から許県をリモートコントロールする、曹操の前例。

原作における董卓の意義は、曹操に前例を与えたこと。151206

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第12回 黒山・黄巾・袁術を破り、兗州を得る

河南に渡り、黒山と戦う

冀州を奪取したばかりの袁紹の陣営に、曹操はいる。鮑信が勧告する。『魏志』巻十二 鮑勛伝にひく『魏書』に、

魏書曰。信父丹、官至少府侍中、世以儒雅顯。少有大節、寬厚愛人、沈毅有謀。大將軍何進辟拜騎都尉、遣歸募兵、得千餘人、還到成皋而進已遇害。信至京師、董卓亦始到。信知卓必爲亂、勸袁紹襲卓、紹畏卓不敢發。語在紹傳。
信乃引軍還鄉里、收徒衆二萬、騎七百、輜重五千餘乘。是歲、太祖始起兵於己吾、信與弟韜以兵應太祖。太祖與袁紹表信行破虜將軍、韜裨將軍。時紹衆最盛、豪傑多向之。信獨謂太祖曰「夫略不世出、能總英雄以撥亂反正者、君也。苟非其人、雖彊必斃。君殆天之所啓!」遂深自結納、太祖亦親異焉。汴水之敗、信被瘡、韜在陳戰亡。

鮑信の父は、少府・侍中に至る。世よ儒雅として顕れる。鮑信は、何進に辟され、騎都尉となり、募兵して千余人を得る。成皋までくると何進が害された。鮑信は京師にいたり、董卓が必ず乱を起こすと考え、袁紹に「董卓を襲え」というが、袁紹はできない。袁紹伝にある。
郷里(泰山の平陽)に帰り、歩兵2万、騎兵7百、輜重5千乗を集める。この歳、曹操が己吾で起兵すると、鮑信は、弟の鮑韜とともに曹操に応ずる。曹操は、袁紹と、鮑信を行破虜将軍、鮑韜を裨将軍とする。ときに袁紹が盛んで、豪傑がおおく向かう。鮑信だけが曹操に、「知略が世にもマレで(不世出で)英雄を統べて乱を治められるのは、きみである。その資格のある人物でなければ、強くても必ず倒れる(袁紹は倒れる)。きみは天から才能を与えられたのだ」と。ついに深く曹操と結納した。曹操も親密にした。汴水で敗れると、鮑信は傷つき、鮑韜は戦没した。

紹劫奪韓馥位、遂據冀州。信言於太祖曰「奸臣乘釁、蕩覆王室、英雄奮節、天下嚮應者、義也。今紹爲盟主、因權專利、將自生亂、是復有一卓也。若抑之、則力不能制、祗以遘難、又何能濟?且可規大河之南、以待其變。」太祖善之。太祖爲東郡太守、表信爲濟北相。

袁紹が韓馥から冀州牧を奪うと、鮑信は曹操にいう。「いま袁紹は明主であるが、権力をかさにきて利益のみ追求し、戦乱を起こそうとする。これは、もうひとりの董卓である。力尽くで抑えても、混乱するだけで、成功の保証がない。しばらく黄河の南を切り取り、情況の変化を末がよい。

諸葛亮伝に、「天下有變、則命一上將、將荊州之軍以向宛洛……」とある。鮑信と諸葛亮の戦略に共通する言葉づかい。鮑信は曹操に、袁紹から独立するため河南にゆけといい、「その変を待ち」袁紹を滅ぼせという(鮑勛伝にひく『魏書』)。諸葛亮は、曹操に「変あらば」劉備と上将が、荊州・益州から攻めろと(諸葛亮伝)。常套句かも知れないが、戦略を語るときに使える言葉。

曹操はヨシとして、東郡太守となり、鮑信を表して済北相とした。

袁紹からの早期離脱。重要なのは、河南を制圧して覇権争いに加わるという基本戦略が決定されたこと。p133

逆にいえば、袁紹の部将をやっている限り、群雄ではなかった。

遺策を完遂した曹操は、袁紹との頂上決戦にコマを進める。

「転機は、まもなくおとずれる」。黒山の于毒・白繞ら10万が、魏郡・東郡に進攻。東郡太守の王肱は、防げない。曹操は、袁紹に出兵の許可を取りつけ、濮陽で白繞を破る。袁紹の推薦で、東郡太守となり、東武陽に駐屯する。鮑信は済北相。

王肱は、『陳志』武帝紀のみに見える。

劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱 領東郡太守。……(初平二年)秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。黑山賊于毒、白繞、眭固等隨反。十餘萬眾略魏郡、東郡, 王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞于濮陽,破之。袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。

黒山の于毒・白繞・眭固らが(袁紹に)反した。十万で、魏郡・東郡を略した。王肱は防げず、曹操が東郡にゆく。

まだ、袁紹のいる冀州を守る(というか、韓馥と戦って奪ったばかりなので、冀州を得るための戦いの延長かも知れない)


黒山は「東郡の攻略を諦めたわけではなく」初平三年春、曹操が頓丘県に移駐したすきに、東武陽に攻めよせる。

武帝紀:三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。
『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する 07

于毒の本拠地(河内の朝歌県)をつく構えを見せ、撤退してきた眭固を破る。黒山と呼応した於夫羅を、魏郡の内黄県で撃破する。


地図は、ぼくがつくったので拙いですが。
初平二年~三年(191-192)の曹操は、鄴県を得たばかりの袁紹の先兵として、黒山・黄巾を迎撃する。袁紹を「冀州牧」といい、曹操を「兗州牧」というから、壮大なスケールの話に思えるが、距離的には名古屋~大阪間を、曹操が走り回る程度。

青州黄巾と戦い、兗州牧を自称

青州黄巾は、黒山との合体をめざし、冀州の勃海に侵入。公孫瓚に敗北。任城相の鄭遂を殺す。

『范書』李固伝にひく謝承『後漢書』:謝承書曰:「固所授弟子,潁川杜訪、汝南鄭遂、河內趙承等七十二人,相與哀歎悲憤,以為眼不復瞻固形容,耳不復聞固嘉訓,乃共論集德行一篇。」
鄭遂は、李固の弟子であり、汝南のひとと分かる。逆に、それ以上、分からない。
『范書』循吏 劉寵伝:董卓入洛陽,岱從侍中出為兗州刺史。虛己愛物,為士人所附。初平三年,青州黃巾 賊入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平。岱擊之,戰死。


兗州刺史の劉岱を鮑信が諌める。「敵は物資が不足する。ひたすら守り、疲弊を待て」と。武帝紀にある。
現実的には、この作戦がベターな選択。だが戦争は、勝ち方が問題。劉岱は、公孫瓚のように威名を高め、政治的な地位の向上を目指し、死ぬ。
武帝紀にひく『世語』によると、陳宮が曹操に、兗州牧を勧める。牧伯制が施行されてから、州政府の権力は増大。群雄は、州を支配する名義にこだわった。天子の辞令なく、曹操は兗州牧を自称した。p135

190年代後半、曹操は事実上、兗州をあきらめた
兗州の士大夫が、曹操にいまいち靡かない。「支配していない」は言い過ぎだが、王匡のところで方詩銘を読んだように、兗州には分裂の予兆がある。だから、呂布は粘れたわけで。兗州出身の程昱は、故郷を迫害することで、曹操に協力していたような雰囲気があるし。人肉の件は、兗州の士大夫からの反発か。


鮑信の献策には、ウラがありそう。そもそも、鮑信の基本戦略は、河南の制圧。曹操は東郡、鮑信は済北を得て足がかりを得た。つぎに、兗州全域を支配するため、障害となる劉岱を、挑発するためのハッタリではなかったか。「あなたには、黄巾を打ち負かす力量は、ありますまい」と。p136

こういう史料にないが、石井先生が想像したことは、モレなく取りこむ。


『魏志』巻十二 鮑勛伝にひく『魏書』に、

會黃巾大衆入州界、劉岱欲與戰、信止之、岱不從、遂敗。語在武紀。太祖以賊恃勝而驕、欲設奇兵挑擊之於壽張。先與信出行戰地、後步軍未至、而卒與賊遇、遂接戰。信殊死戰、以救太祖、太祖僅得潰圍出、信遂沒、時年四十一。雖遭亂起兵、家本修儒、治身至儉、而厚養將士、居無餘財、士以此歸之。

鮑信は、伏兵を置く場所を見極めに来て、黄巾と遭遇して死んだ。曹操は、鮑信の木像をつくり(武帝紀)、鮑信の子・鮑勛を取り立てた。

初平三年の冬、曹操は黄巾を済北に追い詰める。
青州兵を得て、「兵戸」制度のルーツをつくる。兵家という特殊な戸籍に登録する。永代の兵役義務を負わせる。税役の負担が軽い。
曹操と黄巾は、水面下で和睦の交渉を行った。武帝紀にひく『魏書』で、「済南で曹操が邪神のほこらを壊したが、われらと同じ方法。曹操は『道』を理解しているようだ。黄色い王朝が出現するだろう」と。

曹操は、異常に青州兵に気を使う。『陳志』于禁伝で、略奪が認められていた。「なんらかの妥協が成立し、条件づきで曹操軍に加わった」が真相に近い。武帝紀に「降」とあるのは、曹操の経歴にキズをつけないための配慮。曹操が死ぬと、かってに部署を離れた。

石井先生は「降っていない」と言っている。では、どのような妥協・密約があったか。生命の保全のようなものか。しかし、これ以上は史料がないから(史料は「降」と言い張るから)あとは妄想で補うしかない。
黄巾は、革命を是認するようなことを言っているが、これこそアトヅケかも知れない。漢魏革命を是認するような。曹丕の革命を支持していないから。


程昱・毛玠を用いる

◆寿張令に任命された程昱のこと
程昱が加わる。郷里の東阿県を、黄巾から守る。「愚民、ともに事を計るべからず」という、冷徹な現実主義者。呂布との兗州争奪で、郷里の東阿県から略奪し、人肉を兵糧に混ぜる。要するに、既成の価値観など、なんとも思わない人間なのだ。曹操の用人観「唯才」を、もっとも体現する事例。p141
程昱の出番は、まだあって、
p169-170 程昱が呂布から兗州を守る。p191人肉の話の再録。曹操が梅林があると詐った話(『世説新語』仮譎篇)、穀物の量を減らして支給した話(武帝紀にひく『曹瞞伝』)にからめて、兵糧に苦労した話という文脈。

人肉のことは、石井先生が好きな話らしい。


208年、荊州を制圧すると、程昱だけが劉備・孫権が同盟する可能性をいう。程昱伝の本文である。p236-264

太祖征荊州、劉備奔吳。論者以爲孫權必殺備。昱料之曰「孫權新在位、未爲海內所憚。曹公無敵於天下、初舉荊州、威震江表。權雖有謀、不能獨當也。劉備有英名、關羽張飛皆萬人敵也。權必資之以禦我。難解、勢分。備資以成、又不可得而殺也」權果多與備兵、以禦太祖。

孫権に謀略があろうとも、単独で曹操軍に立ち向かうことができない。劉備・関羽・張飛をつかって、わが軍を防ぐだろう。

つねに曹操のために発言・行動する人物として、程昱が描かれている。「程昱の言うことを聞いていれば、まちがいない」というほどだ。魏を、私的集団・公的集団に分けて捉えたけど、程昱は私的集団に属するだろう。士大夫の世論を無視って、曹操軍に利するのだから、よほど曹操と気が合った。「唯才」の成功例である。

p271 程昱が心配したとおり、赤壁は曹操の権威を失墜させた。おそらく、戦後の2年ほどが、曹操政権の最大の危機である。
p279 関中に遠征するとき、曹丕に留守を任せ、ベテランの奮武将軍の程昱に任せる。守りきった。

このときの留守をした人々の顔ぶれは、そのページをやるときが来てから。
レイアウトが壊れてるけど、曹操の覇業放棄を阻止、程昱伝


◆治中従事史に辟召された毛玠

毛玠、字孝先、陳留平丘人也。少爲縣吏、以清公稱。將避亂荊州、未至、聞劉表政令不明、遂往魯陽。太祖臨兗州、辟爲治中從事。玠語太祖曰「今天下分崩、國主遷移。生民廢業、饑饉流亡。公家無經歲之儲、百姓無安固之志、難以持久。今袁紹劉表、雖士民衆彊、皆無經遠之慮、未有樹基建本者也。夫兵義者勝、守位以財。宜奉天子以令不臣脩耕植畜軍資、如此則霸王之業可成也」太祖敬納其言、轉幕府功曹。

『陳志』巻十二 毛玠伝によると、毛玠は、陳留のひと。荊州に乱を避けようとしたとき、劉表の政令が明らかでないと聞き、魯陽にとどまる。曹操が兗州で辟して、治中従事(史)とする。陳留天子奉戴・軍糧確保を進言する。「袁紹・劉表は強大だが、将来への展望がない。天子法隊・軍糧確保をせよ」と。p142

のちに、司空・丞相府の東曹掾となり、崔琰とともに人事を任される。

太祖爲司空丞相、玠嘗爲東曹掾。與崔琰並典選舉。其所舉用、皆清正之士。雖於時有盛名而行不由本者、終莫得進。務以儉率人、由是天下之士莫不以廉節自勵。雖貴寵之臣、輿服不敢過度。太祖歎曰「用人如此、使天下人自治。吾復何爲哉」
文帝爲五官將、親自詣玠、屬所親眷。玠答曰「老臣以能守職、幸得免戾。今所說人非遷次、是以不敢奉命」

盛名があるものでも、実質がなければ、毛玠が昇進させなかった。貴寵の臣であるが、輿服は質素であった。曹操は、「このように毛玠が人事をやってくれるから、私はすることがない」と。
曹丕が五官将となると、親しい者の昇進を頼んだが、「そのひとは、昇進させるべき序列にいませんので、だめです」といった。

曹操のコメントは、やや苦笑が入っているのだろう。曹氏の私的集団として、ながく親しんだ者で、高位を独占したくなるが、毛玠が牽制する。
あとで毛玠は、「長子の曹丕を、後継者とせよ」という。これは、「曹丕が優れているから」ではなく(この史料にあるように、曹丕の要望をこばんだ)、曹丕が長子だからである。そういう、第三者のチェック機関、ルールブックみたいなひと。


金尚・袁術を破り、兗州を守る

初平四年(193) 春、袁術は、陳留の封丘にくる。おちめの袁術は、金尚をかつぎ、曹操を打倒し、袁紹派(劉表と袁紹)を分断しようとする。黒山・於夫羅と合流し、曹操のいる鄄城に迫る。

黒山・於夫羅との戦いは、ずっと続いている。袁術は、唐突に出てきたのでなく、兗州の西側から、曹操を脅かすという黒山の動きと、一貫性がある。

こういう場面の曹操は、かならず全力をあげて、短時間で一方を叩く。袁術の将の劉詳、つぎに袁術を叩いた。

叩くべき一方に、黒山でなく袁術を選んだ。これが大切。きっと、軍議があったのだ。描くと楽しいだろう。情況分析をするところ。


このころ揚州は、袁術の勢力圏と見なされた。p143
初平三年(192) ごろ、揚州刺史の陳温(曹洪の旧知)が死んだ。

ぼくは思う。曹洪が曹操に「馬をあげる。私がいなくてもいい」という。臣下が主君に献身的な申し出をしたのではない。曹洪は、揚州刺史の陳温と旧知であり、その人脈により、曹操は揚州で兵を得られた。曹操にない人脈を持つ有力者。きっと上記のセリフは「曹氏の家長は、曹操に任せる」という敗北宣言であろう。
そうした曹氏と揚州のツナガリも、陳温の死で、いったん薄まる。

袁紹は、従兄の袁遺を送りこむ。袁術は、鄭泰(すぐ病死)、陳瑀(下邳のひと)を刺史に任ずる。袁遺は沛国で部下に殺された。陳瑀は、覇権争いへの参入をもくろみ、袁術をこばむ。p144

◆ダークホースである、下邳の陳氏
原作で陳瑀が出てくるのは、p202。袁術が帝位を称すると、沛国相の陳珪(下邳のひと、陳登の父)は、東海郡の海西県に駐屯する陳瑀を、安東将軍・呉軍太守に任じて、反袁術同盟をつくる。
p209 袁術・劉繇の死後、下邳の陳氏は、ダークホースとなる。反袁術同盟に加わるが、孫策の奇襲を受けて壊滅。従子の地統は、袁術・呂布対策の切り札として、伏波将軍・広陵太守に任じられる。みずからを馬援になぞらえ、「江南を呑滅」する抱負をもつ。劉備も舌を巻く。
『陳志』巻七 呂布伝にふす陳登伝に、「備因言曰:「若 元龍 文武膽志,當求之 於古耳,造次難得比也。」とある。いにしえの誰かに例えようとしても、ちょっと思いつかない。……ただ、孫策と同じころに死去。

陳瑀・陳登を、同じ勢力として見ることを「許す」という、石井先生の記述は、ひとつの判断を含みます。彼らを、連携した集団として眺めよう。
呂布伝の末尾についている、陳登伝。やらねば。宿題。


◆袁術の戦略の焼き直し p144
袁術は、揚・徐二州牧を称する。李傕も「支援を期待」し、左将軍・陽翟侯とする。
強敵の少ない江東を完全制圧し、供給される人的・物的資源をつかい、中原に覇を競う。孫呉政権のヒントとなる。
曹操は「大きな貯金」をのこす。のちに袁術は、曹操の出陣を聞くと、色を失って逃げる。力関係は、このとき決まった。夏、曹操は、済陰郡の定陶県に凱旋した。最初の試練をきりぬけた。151206

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第13回 荀彧を迎え、軍師制度を整備

荀彧の登場

初平二年(191)、東郡に進駐する曹操は、荀彧とであう。荀彧は、洛陽政変の直前に孝廉にあげられる。冀州牧の韓馥に招かれ、冀州へ。ゆくと、すでに袁紹が冀州牧を奪ったあと。
荀彧は、袁紹の将来性に疑問。『魏志』荀彧伝に人物評。p146

この辺、袁紹と一度は会うけど、気分的に折りあわず、袁紹から離れる荀彧を描きたい。つぎにあるように、宦官の唐衡のことを、言外に匂わされるとか。
潁川から一緒に避難した、荀諶・辛評・辛毗・郭図は、袁紹に仕えることを決めるのに……とか。
「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ

父の荀緄は、唐衡におもねり、婚約を承諾。士大夫の風上にもおけない、うらぎり行為。曹操と同じく、荀彧は、士大夫の宦官の境界線上にあった。袁紹陣営を離脱「せざるをえない事情」である。

ときに荀彧二十九歳、曹操三十七歳。劉備・諸葛亮にも勝るとも劣らない名コンビ。衛茲・鮑信・陳宮も参謀であり、曹操が参謀のコマ不足に悩まされたではない。

陳宮は原作p206 で、曹操の「義兄弟」である。死後に、遺児の面倒を見たことから、そう書かれる。のちに裏切ったから抹消されたが、衛茲・鮑信のように密着した時期があったに違いない。中牟県令として命を救うのとは、別の仕方で。

知名度、清流派の運動をになった潁川・汝南士大夫の本流という、「看板」が欲しかった。p148

ぼくが思うに、荀彧は、ただ看板が欲しいから採用したけど、なぜか人材登用が秀逸だった。士大夫のもつ、人脈という政治資本の威力に、瞠目して、かつ打ちのめされる曹操とか。
「わが子房」とか言いながら、素っ気なく会話を終える曹操に、荀彧が「ちょっと待ちなさい」と呼び止めるシーン。曹操は、ただ名義を貸して欲しかっただけ。荀彧については、「どうせ袁紹とケンカしたんでしょ。だから、袁紹の部将のオレを、腰掛け・退避場所として使っているんでしょ」としか見ていない。マイナスからプラスに転じる、友情の物語。


清流士大夫の看板、荀攸と鍾繇を用いる

荀彧は、荀攸と鍾繇を推薦(『魏志』荀彧伝)
荀攸は、のちに賈詡と並んで「外様から召し抱えられた」となる。許攸のリークを、荀攸と賈詡だけが賛同する。そういう経歴をもつ謀士だけがわかる直感。p239

荀攸による董卓との対決は、ひとりの独立勢力(何顒・鄭泰の部下?)という扱いである。荀攸は原作で、必ずしも初期メンバーにカウントされない。ほんとうの初期は、曹操が兗州に入る前、地盤を得る前から、曹操と行動をともにしたひと。おおくが、途中で死んでるけど。


荀攸は、荀彧とともに「二荀令」と呼ばれた。あるとき、おばの子の辛韜が、冀州平定の裏話を聞き出そうとすると、はぐらかした。「辛毗が、袁譚を降伏させた。私は、何もしていない」と秘密を守った。『魏志』荀攸伝にひく『魏書』。
おのれの功績をほこらず、淡々と天下平定に力を貸した。曹操の野心に、身体をはって抵抗した荀彧とちがい、どこか醒めた印象。p149
しかし、剛胆にして野心家、かつては勤王の志士。
長安で、何顒・鄭泰・种輯とともに、董卓の暗殺を企てた。「ただちに董卓を刺殺して民衆に謝罪し、函谷関をおさえて天下に号令を」。荀攸は獄に繋がれても平然、鄭泰は逃亡、何顒は自殺。p150

何顒ら党錮と結びつき、河北と曹操をつないだ荀攸伝
獄で平然としていたが、心境に変化があったのだろう。いつから「剛胆な野心家」から「醒めた印象」に化けたのか。石井先生は、荀攸のギャップを、敢えて指摘しているから、作品に織りこみたい。小説として映えるのは、女性がらみだが、やはり政治生活のなかに理由を用意できたらベスト。


鍾繇は、祖父の鍾晧が清流派から敬愛された。潁川太守の陰脩は、荀攸・荀彧・郭図・鍾繇を用いる。長安で、黄門侍郎、侍中。曹操と連絡をとり、洛陽帰還を計画。建安初、侍中・守司隷校尉。

鍾繇のキャラは、原作は深掘りなし。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝


後継者となるべき郭嘉を用いる

曹操がもっとも信頼を寄せた郭嘉も、荀彧が推薦。p152
郭図の一族。建安元年ごろ、司徒の張温に辟召される。建安三年ごろ、荀彧のはからいで、曹操と会見する。十五も年齢が離れるが、意気投合。新設の参謀職・軍師祭酒に迎える。
奇策を連発。建安十二年、死去。曹操は、郭嘉をみずからの実質的な後継者と考えていたらしい。

原作では、曹操を橋玄・霊帝の「後継者」と表現する。爵位・家の跡継ぎではなく、政治姿勢が同じものを指すか。自分の代では、時代状況が成熟せずに実現できなかったことを、「後継者」ならば実現してくれるかも知れない。そういう期待である。
郭嘉を失った曹操は、きちんと、政治姿勢の意味での「後継者」を得られたのか。曹植が、うっすらそうだったのかも。素行が悪くて、「二十三歳なのだから、励まねばならない」といい。しかし、派閥闘争が始まって、曹植の人生は歪んだ。曹操は、曹植に「後継者」になって欲しかった。魏王という爵位ではなく、政治姿勢の意味で。そういう公私混同を描こう!

郭嘉は、陳群に弾劾された。郭嘉伝に、「初,陳群非嘉不治行檢,數廷訴嘉,嘉意自若。太祖愈益重之,然以群能持正,亦悅焉」とある。士大夫のモラルに背を向ける郭嘉は、若き日の曹操そのもの。基本的な生き方・価値観という点で、深く共鳴した。p154

この郭嘉像は、原作に独自のもの。積極的に使う!


◆荀彧と曹操のコンビネーション
「興味深い」のは、郭嘉のような難のある人物でも、平気で推薦する荀彧の態度。前任者の戯志才も、人望がなかった。河東太守の杜畿も、評判が悪い。才気に溢れ、反骨の血が流れる。
高幹から河東を守る人物として、荀彧は杜畿を推薦(『魏志』杜畿伝)

杜畿伝で、いかに杜畿が反骨なのか、評判が悪いのか確認。原作p154では、杜畿が手柄をたて、船に殉死したことしか書いてない。


唯才の事例として、p155 曹操が任命した兗州別駕従事の畢諶は、呂布に味方したが、曹操が魯国相に。畢諶は、武帝紀にしか登場しない。

初,公為兗州,以東平畢諶為別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,為之流涕。既出,遂亡歸。及布破,諶生得,眾為諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以為魯相。

東平の畢諶は、張邈の叛乱で、やむなく曹操をそむいた。曹操は、孝行な畢諶を信じ、魯相とした。

何焯はいう。曹操が畢諶の孝行をたたえたのは、劉備と徐庶とおなじだ。『郡国志』はいう。豫州の魯国は、国治は魯県だ。ぼくは思う。兗州で、曹操と張邈の戦いは、畢諶のみならず、兗州の官吏たちを板ばさみにした。っていうか、しばらく陳留にいた張邈が、自然な流れでゆけば、兗州をとれる。あとから曹操が侵入して乱れたのだ。


唯才の事例として、呂布についた魏种がある。

以魏种 為河內太守,屬以河北事。初,公舉种孝廉。兗州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走,公怒曰:「种不南走 越、北走胡,不置汝也!」既下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。

かつて曹操が済南相だったとき、孝廉にあげた人物。「魏种だけは、自分を見捨てない」と思っていたのに。武帝紀にのみ登場する。「その才能だけを買うのだ」と。

ちゃんと魏种との出逢いのシーンを、伏線としてセットすべし。こういうことを、モレなくやるのが、優れた小説家だと思います。
曹操が、まだ黄巾の平定後とかに見出したのだから、よほど(曹操から見て)優れた人材だったのだろう。曹操が挙主である王吉を、「絶対に裏切らない」と思っていたことが窺われる。同じことを、魏种に期待したのだから。


唯才の基本方針は、息のあった荀彧とのコンビネーション。荀彧もまた、礼節・名節などの価値観から、かなり自由な場所にあった。曹操と荀彧の共通項目。士大夫社会における立場を暗示。p156

宦官は、たしかに王朝に害毒を生み出したが。曹操・荀彧のような「辺境=マージナル」な価値観をもった人物を生み出し、彼らが乱世の収束に力を発揮した。宦官は、一概に悪とは限らない。歴史を駆動させる役割を、間接的に担った。という歴史観を、ぼくはかなり行間を熟視して、読み取る。
おそらく編集者がつけた「正邪を超越した史上屈指の英傑」という表紙の宣伝文句は、このあたりを勘違いしたもの。曹操は、清流派(党人)でもなければ、濁流派(宦官)でもない。その両方をあわせもち、人材をどんどん発掘できたと。
袁紹もまた、宦官でも党錮でもない、新しい政治体制を「奔走の友」とともに樹立しようとした(と原作で書かれる)。しかし、袁紹と曹操は、ともに第三の道を目指しながら、価値観が同じではない。もうちょい袁紹は、清流派の順当な後継者という感じ。旧来の価値観に縛られた……ような。
原作で、袁紹は「主役」兼「ラスボス」なので、じっくり分析したい。


軍師と軍師祭酒

曹操政権の参謀部門の充実を象徴するのが、軍師、および建安三年正月におかれた軍師祭酒。
鄧禹が、軍師1名、軍師祭酒3名を随行させた故事にちなむか。

袁紹・袁術は、戦略において光武帝に従った。荀彧は、補給の重要性を説くときに光武帝を持ち出した。曹操は、参謀部門について、光武帝の故事を(やっと)使った。
曹操が、「とりあえず人材がいれば、何かができる」と語ったのを、原作では「行き当たりばったり」とする。それはきっと正しいが、一面を見落としている。曹操は、地図で天下を見下ろして、「先にどこを攻略して……」と考えるのは、苦手である。袁紹から離脱して兗州に入ったのは、鮑信の戦略。そのあと鮑信を失い、徐州・兗州で迷走するのは、曹操の地のキャラ。潁川にいくのは、荀彧の戦略。自分で戦略を考えると失敗する、というのは曹操の特徴であり、天下統一をしきれない理由も、そのあたりに求めたら……酷だろうか。
地図が苦手といっても、もうちょい狭く、戦場について考えるのは得意か。
そして曹操は、戦略よりも、人事・組織論に興味があった。石井先生は、曹魏の諸制度について、曹操ひとりの独創とすることに批判的だが……、やはり組織の設計が、袁紹・袁術よりも、少しはうまかったという要素は描きたい。袁紹なんて、戦略は優れていたのに、人事・組織論が甘かったから、負けたような書かれ方をするし。


軍師は、長く荀攸の指定席。
軍師祭酒は、圧倒的におおい。建安十八年(213)、曹操を魏公に勧めるとき、軍師祭酒がたくさんいる。軍師と軍師祭酒は、参謀長と一般参謀ぐらい。ただし、魏国の成立直前に(211-213)、軍師は余人に増えている。中軍師の荀攸、前軍師の鍾繇、左軍師の涼茂、右軍師の毛玠。
前軍師がいるのに、後軍師がいない。不明。p158

軍師祭酒は、建安七子らが任官。曹操の秘書官か。軍師祭酒の路粋は、のちに魏国の秘書令(革命後、中書令と改称され、詔勅を起草)となる。
三国鼎立後、軍師祭酒は廃止。軍師は、地方軍の監察官となる。辛毗など。

まさに、曹操がつくり、曹操だけがつかった官制だなあ!


袁紹は、初平二年、尚書の盧植を軍師とする。袁術は、太傅の馬日磾に軍師を強要。劉表は、蔡瑁を軍師とする。
漢の高官、地元の名士を軍師にまねく。すぐれた政策・組織を、すべて曹操・諸葛亮の独創性・卓越性に帰するのは、公平でない。袁紹のもとに、曹操に劣らぬ智謀の士がいた。田豊・許攸、審配・逢紀、顔良・文醜。『魏志』荀彧伝、『魏志』袁紹伝。p160
ほかにも、荀諶・沮授・郭図・辛評・陳琳・崔琰。
袁紹・袁術が、曹操と同じようなシステムを採用していたとしても不思議ではないし、その可能性は極めて高い。敗者となり、記録がないだけ。151208

比較的、史料の残っている袁紹で、このシステムを再現するのは、楽しそうな遊び。
本編とは別ですが、今日の興味があるツイートを引用。
@Jominian さんはいう。初平末から建安初め辺りの徐州は、曹操絶対殺すマンと、袁術絶対殺すマンの二種類がいて、前者(曹操を殺す)は東海や琅邪に、後者(袁術を殺す)は下邳の東部や広陵にいる印象。しかし、絶対数が少ないのではっきりとはしない。陶謙劉繇連合を形作った徐州勢力の内、「劉繇との連和を推し進めた広陵辺りの人々は、陶謙劉繇連合のかねてからの敵である袁術を最優先の討伐対象と考えていて、陶謙直轄に近い徐州北部は、曹操の被害に遭ったこともあり、曹操討伐を最優先としていたのだろう」というなんとなくの理解がある。
‏@fushunia さんはいう。広陵は徐州といっても、揚州に接した江北の地ですし、前漢時代に東越(福建省)の民を「江水・淮水の間に強制移住」させたのも、このあたりじゃないかと感じでいます。南北で歴史的に異なる地域がひとつの州になっている気がしますね。
@Jominian さんはいう。劉繇が乱を避けていた淮浦って、下邳陳氏の本拠地だな。多分だが、陶謙は初平三年に朱儁擁立に失敗した後、董卓の死もあって、朱儁と共に内部から朝廷を矯正していく方針を取ろうとしたんじゃなかろうか。その一環で、広陵と会稽を結び、淮浦に避難していた劉繇を擁立し、袁紹と袁術の私的な争いを制して東方で朝廷権力を確立しようとしたと。
同氏はいう。陶謙が朱儁と共に、朝廷を内部から正そうとする中、「天子を僭称する闕宣と結んだ逆賊を討つ」と曹操が一方的な虐殺を行うという流れが生まれる。実際に虐殺を経験する徐州北部は曹操への恨みが、徐州というより呉越に連なる地域である広陵と江東は、現に侵攻を続ける袁術への対抗を先鋭化させていくと。王朗と趙昱に促されて朱儁のいる朝廷を支持した陶謙に、袁術に駆逐された下邳陳氏が合流し、劉繇とともに東方の一大勢力を築くが、袁紹サイドと袁術サイドに挟み撃ちされて衰退していく過程が、初平末から建安初めまでの徐州だと思う。
同氏はいう。袁術の揚州進出と刺史陳瑀の駆逐が初平四年。その少し後、下邳の淮浦に乱を避けていた劉繇が楊州刺史になる。その頃、既に王朗と趙昱がそれぞれ会稽と広陵の太守となっていた。初平三年の擁立失敗からの、東方での動き。二袁に対抗する権威の確立。
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@Golden_hamster さんはいう。事実上の割拠状態からでも天下の帰趨が定まる中で正当化されて王朝内部に戻れる場合もあるというのは光武帝の時にあったことだから、ある意味 正義感の強い者でも今の皇帝・王朝から距離を置くというのは選びうる選択なんだよな。
‏@Jominian さんはいう。それを選べるかどうかってのも、当時の人間にしたらかなり強烈な選択を突きつけられている感じがするけどな。陶謙は考えるほど、天子を称した闕宣なんかと結ぶ感じはしなくなる。やっぱ、あれは事象の前後を逆にした曹操のプロパガンダな気がするわ。
@Golden_hamster さんはいう。俺も、闕宣は「あとから天子を称したから陶謙が滅ぼした」ように思えるんだよな。あと宋建も怪しい。韋氏時代は半独立ながら僭称まで至ってなかったんじゃないかって思えてならない。
‏@Jominian さんはいう。宋建も韋氏とは協力してたしな。韋氏は割りと朝廷を立て直す意思を持ってそうだし、宋建に天子は名乗らせなさそう。

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第14回 徐州で大虐殺し、兗州に叛かれる

曹嵩の殺害事件

殺害事件は、193-194のあいだ。

殺害の時期が、ひとつの決まらないというのも、立派な知見。

初平四年(193)、陶謙は、兗州に侵入。泰山・任城を襲う。反転に転じた曹操は、同年秋・翌年夏、徐州に進攻。

ここまで読む限り、曹操は兗州牧を自称しても、泰山・任城まで制圧したのではない。むしろ、曹操の勢力外に陶謙が攻め進み、あわてて曹操が対抗したという感じ。空白地帯だから、先制攻撃したほうが有利だという。

曹嵩は太尉をつとめ、群雄のホープの父。当時からウワサが飛びかった。西晋の郭頒『魏晋世語』によると、曹操は、泰山太守の応劭(『風俗通』著者)に、鄄城までの護衛を頼むが、陶謙の数千騎に殺される。曹嵩の妾が太って逃げ遅れた。応劭は、袁紹のもとに逃げた。p162
曹嵩を笑いものにして、応劭が巻きこまれたのを曹操の責任だと言わんばかり。『後漢書』応劭伝も、同じ立場。重要なのは、首謀者が陶謙と明言すること。

『范書』朱儁伝によると、応劭は、陶謙が企画した、第二次 反董卓同盟に加わっている。ふつうに陶謙派として曹操と対立し、駆逐されたのではないか。
朱儁伝:乃奏記於儁曰「徐州刺史陶謙、前楊州刺史周乾、琅邪相陰德、東海相劉馗、彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、太山太守應劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄等,敢言之行車騎將軍河南尹莫府…」


『范書』列伝 第三十八 応奉伝にふす応劭伝

三年,舉高第,再遷,六年,拜太山太守。初平二年,黃巾三十萬眾入郡界。劭糾率文 武連與賊戰,前後斬首數千級,獲生口老弱萬餘人,輜重二千兩,賊皆退却,郡內以安。興 平元年,前太尉曹嵩及子德從琅邪入太山,劭遣兵迎之,未到,而徐州牧陶謙素怨嵩子操數 擊之,乃使輕騎追嵩、德,並殺之於郡界。劭畏操誅,弃郡奔冀州牧袁紹。


韋昭『呉書』では、陶謙は、張闓に曹嵩を護衛させるが、張闓がそむいて曹嵩を殺し、袁術のもとに逃亡した。これが事実なら、陶謙はあわれな被害者。『演義』は、陶謙を温厚な人物とし、『呉書』を踏襲。
『呉書』を継承したと考えられる『范書』陶謙伝では、主犯を特定せず、将兵による集団的な犯行とする。p163

陶謙の人物像

陶謙の人物像は。徐州に避難した許劭は、士大夫を礼遇する陶謙を「虚飾」と見なし、劉繇のもとへ。

『范書』列伝 第五十八 許劭伝:司空楊彪辟,舉方正、敦樸,徵,皆不就。或勸劭仕,對曰:「方今小人道長,王室將亂, 吾欲避地淮海,以全老幼。」乃南到廣陵。徐州刺史陶謙禮之甚厚。劭不自安,告其徒曰: 「陶恭祖外慕聲名,內非真正。待吾雖厚,其埶必薄。不如去之。」復投揚州刺史劉繇於曲阿。其後陶謙果捕諸寓士。及孫策平吳,劭與繇南奔豫章而卒,時年四十六。


大儒の鄭玄も、徐州に避難して保護されたが、まもなく帰郷。相容れない何かを感じ取ったのだろう。
呉にゆく張昭は逮捕された。

『陳志』巻五十二 張昭伝:張昭字子布,彭城人也。少好學,善隸書,從白侯子安受左氏春秋,博覽眾書,與琅邪趙昱、東海王朗俱發名友善。弱冠察孝廉,不就,與朗共論舊君諱事,州里才士陳琳等皆 稱善之。 刺史陶謙舉茂才,不應,謙以為輕己,遂見拘執。昱傾身營救,方以得免。

これを救った別駕従事の趙昱(瑯邪のひと、-194?)も、脅迫されて出仕した。

『范書』陶謙伝:是時徐方百姓殷盛,穀實甚豐,流民多歸之。而謙信 用非所,刑政不理。別駕從事趙昱 ,知名士也,而以忠直見疎,出為廣陵太守。曹宏等 讒慝小人,謙甚親任之,良善多被其害。由斯漸亂。……及曹操擊謙,徐方不安,〔笮〕融乃將男女萬口、馬三千匹走廣陵。廣陵太守 趙昱待以賓禮。融利廣陵資貨,遂乘酒 酣殺昱,放兵大掠,因以過江,南奔豫章,殺郡守朱皓,入據其城。
あれ? 趙昱は忠諫で疎んじられたとあるだけ。


初平二年(191) 四月、董卓が長安にひくと、中牟県に駐屯する朱儁は、関東に董卓の討伐を呼びかける。政治的センスに欠ける愚挙。黄巾討伐の武名は、すでに過去の栄光。p164
陶謙は、兵3千を送り、朱儁を車騎将軍におす。「第二の反董卓同盟」。賛同者は、上記の朱儁伝にあるもの。

@Jominian さんのツイートに地図があります。
https://twitter.com/Jominian/status/674267834768338945

『范書』朱儁伝:徐州刺史陶謙、前楊州刺史周乾、琅邪相陰德、東海相劉馗、彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、太山太守應劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄等

学者や文人ばかりで、黒幕が陶謙と明らか。p164

ちょっと飛躍がある気がしますが、この飛躍こそ、原作の持ち味なので、積極的に取り入れていきます。陶謙の政治的な目標は、前回の末尾に、興味のあるツイートを引用させて頂きました。

朱儁が長安に召喚され、太僕となる。

陶謙は関東の覇権争いに、加わらざるを得なくなる。初平三年末ごろ、公孫瓚の援軍要請に応じて、東郡の発干まで兵を出す。

武帝紀:袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹.太祖與紹會擊,皆破之. 〔初平〕四年春,〔曹操は〕軍鄄城.

初平四年(193) 正月、長安に使者を送り、安東将軍・徐州牧。
袁術派の公孫瓚と友好関係にあった陶謙が、袁紹派の曹操を挑発するために、曹嵩殺害に積極的に関与した疑惑が浮上。p165

ぼくは思う。@Jominian さんの分析を借りると、徐州の北部にいる「曹操を殺す」派の集団と陶謙が連動すると、この行動になる。ただし、「曹操を殺す」が最終的な目標ではなく、あくまで袁紹に対抗する(曹操はその先兵に過ぎない)となる。
初平四年、袁術が、まだ揚州で勢力を確立せず、徐州に圧迫を加えるまでは、陶謙はうっすら(公孫瓚に協調することで、間接的に)袁術に協力していた感じか。徐州の南部にいる「袁術を殺す」派のひとが顕在化するのは、江北の争いが活発してからか。経年の変化を、見逃さないようにしたい。
陶謙が、優遇していた士大夫を、いきなり態度を変えて迫害したかのような描写も、袁術との関係の変化から読むべきか。迫害された張昭など、孫策を頼っている。まだまだ整理が必要。
ともあれ、曹操の虐殺と向き合っていたころの陶謙は、「袁紹とは異なる(一時的に落ち目になった袁術とも異なる)第三勢力」を目指しており、袁紹・曹操と、真っ向から対立する。袁術が、いちど消沈して、また揚州で復活するから、分かりにくいのだ。

『呉書』は曹操を貶めるため、父の死さえも利用する権力の亡者とした。

つまり石井先生は、『呉書』は採用しない。


徐州大虐殺

武帝紀によると、初平四年(193)「徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華費、略任城。秋、太祖征陶謙、下十餘城。謙、守城不敢出」と、10余城を攻める。

これは、『陳志』武帝紀において、曹嵩が殺される前のことである。ふつうの(といっても大量に死傷者を出すけれど)勢力拡大の戦いである。
武帝紀は、少しズルくて、「興平元年春、太祖自徐州還。初、太祖父嵩、去官後還譙。董卓之亂、避難瑯邪、爲陶謙所害。故太祖志在復讎東伐」と、興平元年(194) の徐州攻めの理由を、曹嵩の殺害に求めるが、「初め」といい、時系列をボカす。しかし、前年(193) の徐州攻めの理由が、曹嵩の殺害ではないという書きぶり。なぜなら、さきに陶謙が曹嵩を殺したなら、前年(193) の記述で「初め」とやらねばならない。きっと、前年(193) の10余城の進攻を受けて、陶謙が、マヌケなことに領内にいる曹嵩を殺した。
曹操は、陶謙の領内(瑯邪)に、まだ父がいるにも関わらず、人質になって殺されることを織りこみ済みで徐州を攻撃した。前漢の劉邦だって、父を項羽に捉えられても、「父をゆで殺したら、スープを分けてくれ」といった。父親の保護よりも、拙速な攻略のほうが大切なのだ。
もちろん、曹操の名誉のために、微妙な位置に「初め」を置いたという解釈もできるが、それにしても興平元年の進攻は、復讐のためと言っているんだから、弁護=隠蔽しきれてない。だからこの解釈はちがう。


翌年は、『陳志』荀彧伝にひく『曹瞞伝』によると、

曹瞞傳云:自京師遭董卓之亂,人民流移東出,多依彭城閒。遇太祖至,坑殺男女數萬口於泗水,水為不流。陶 謙帥其眾軍武原,太祖不得進。引軍從泗南攻取慮、睢陵、夏丘諸縣,皆屠之;雞犬亦盡,墟邑無復行人」

曹操の虐殺が記され、「取慮、睢陵、夏丘諸縣」を陥落させたのを、石井先生は、194年としている。

『曹瞞伝』は、呉の政治的な主張を含むから(陶謙を被害者とするから)信用ならないと、石井先生は仰ったが、具体的な攻略の県名は、『曹瞞伝』から引いてくる。p165は、『陳志』武帝紀と、系統の違う呉の系統の史料を、繋げてよいものか。


『范書』陶謙伝に、

初,曹操父嵩避難琅邪,時謙別將守陰平,士卒利嵩財寶,遂襲殺之。初平四年,曹 操擊謙,破彭城傅陽。謙退保郯,操攻之不能克,乃還。過拔取慮 、雎陵、夏丘,皆屠 之。凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流,自是五縣城保,無復行迹。初三輔遭 李傕亂,百姓流移依謙者皆殲。
興平元年,曹操復擊謙,略定琅邪、東海諸縣,謙懼不免,欲走歸丹陽。會張邈迎呂布 據兗州,操還擊布。是歲,謙病死。

石井先生のp165 の記述は、県名の並びと書きぶりから、『范書』陶謙伝がベースと推測される。
『范書』になると、初平四年(193) の徐州攻めすら、曹嵩の殺害が動機となっており、『陳志』武帝紀と前後関係が違う。『范書』陶謙伝が、呉系統の曹操観で書かれていることは、石井先生が指摘ずみだが、取れる情報は、取るという方針。
石井先生は、「曹操軍が残虐行為をはたらいたことは、動かしがたい事実」「大虐殺とでも呼ぶことができる蛮行」「父を殺されたことに対する、過度の報復措置」と、呉系統の曹操観に合流していく。

武帝紀にも、「復讎東伐」とあるから、武帝紀の曹操観から、必ずしも外れたわけではないが、ヒートアップしている感じがする。そして、次の話に繋がる。


憎しみは憎しみを生み出す。p166
笮融は、男女1万人をつれて、長江を渡った。諸葛瑾・厳畯も江東に避難。おそらく、『呉書』の曹嵩殺害事件にかんする記述は、批判した民からの情報。無実・無抵抗の人民を虐殺した罪は、けっして許されない。孫権陣営は曹操を「豺虎」といい、諸葛亮・魯粛は、項羽になぞられた。三国鼎立の最大の要因。
私的な復讐を優先したことで、士大夫の失望を買った。せっかくの足がかり、兗州を失いかけた。

『陳志』巻五十四 周瑜伝で、赤壁の前に、議者咸曰:「曹公豺虎也,然託名漢相,挾天子以征四方,動以朝廷 為辭,今日拒之,事更不順」という。
ぼくは思う。曹操が天下統一の資格を得てから、虐殺をやったら、「虐殺をするから、天下統一が遠のいたのんだ」と断罪すればよい。たとえば、赤壁で負けた腹いせに、揚州大虐殺をやれば、それは、天下統一から遠のいた原因である。しかし、まだ曹操は、兗州すら全土を得ていない(しかも直後、足もとからひっくり返る)状態である。曹操の残虐性は、はじめから搭載された仕様であり、この残虐性も含めた軍略があったから、これから中原に覇権を確立する。たしかに、魯粛・諸葛亮がこぼれたのは、結果的には天下統一を阻んだが、そこまで「配慮」するのは、不可能である。曹操が曹操でなくなり、中原の制覇すら覚束ない。
というより、曹操に徐州で徹底的な作戦をおこなわせた背景(袁紹の拡大政策、圧倒的な優勢)に、目を向けるべきではないか。表面的に、袁紹は、董卓・袁術を圧倒できるホープである。手っ取り早く袁紹に天下を取らせるのが、万民のため。同時に曹操は、袁紹の別働隊として、偉大なる戦果を得て、袁紹から独立することも視野に入れている。ふたつの行動(袁紹の先兵としての活躍、独立の基盤づくり)は矛盾せず、どちらも曹操に急進策を取らせる。徐州の獲得を焦ったので、「行き当たりばったり」の曹操は、ここまで大量の殺戮をやったのでは。
作品では、石井先生の見方を踏襲するのが原則だが、曹操を断罪したくない。袁紹の優越性、呉系統の史料による曹操批判の批判、なども、石井先生が書いておられるから(こちらの要素に軸足を置けば、虐殺は、気が狂った蛮行という位置づけでもなくなる)それらも合わせながら、多面的に描きたい。


兗州がそむく

呂布は、袁術・袁紹・張邈・張楊に身を寄せる。李傕は、呂布を潁川太守に任命。張楊と引き離し、関東を混乱させる計略。

果たして、呂布を利用しようとする勢力が、兗州に出現。
陳留太守の張邈は、反董卓同盟の仕掛け人だが、すっかり影が薄い。袁紹は、なんども曹操に、張邈の殺害を命じる。これを拒否した曹操は、まだ良好。

ぼくは思う。張邈は、袁紹からの独立を指向。だから袁紹は、曹操に「張邈を殺せ」と命じた。覇権の確立を急ぐ袁紹だから、奔走の友を切ったのだろう。袁紹から見れば曹操は、都合のいい先兵。しかし曹操から見れば、張邈は、「袁紹から独立することの先輩」である。結べるなら、結びたい。
袁紹が殺害を命じたのは、『陳志』呂布伝に挿入された、張邈伝。上記リンク。


しかし曹操から見ると、張邈は、自前の軍隊を温存しており、兗州に置いておくのは危険。だから疑念を抱かせぬよう、第一次 徐州出兵の直前、「私が戻らねば、張邈を頼れ」という。

このセリフは、やはり『陳志』呂布伝のなか。第一次のことと決まるのは、「後還,見邈,垂泣相對」と、帰ったあとに再会したという記述があるから。第二次なら、敵対関係に入っている。


◆士大夫を圧迫する
曹操は、兗州における権威の確立を焦った。沛国相の袁忠(汝南のひと、-196?)、処士の桓曄(=桓邵、沛国のひと、-196?)は、曹操が兗州牧となると、会稽・交趾に逃亡。曹操は、交趾太守の士燮に命じて、彼らを殺害させた。九江太守の辺譲(陳留のひと、-196?)は、帰郷して曹操を批判したから、曹操に殺された。

武帝紀の末尾にひく『傅子』:初,袁忠為沛相,嘗欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兗州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家,忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺 之。

こういう強圧的な姿勢が、士大夫に反発された。

『傅子』では、時系列が不明。曹操が権力を確立した時期として、196年か、という推測がされているだけか。ぼくが思うに、実態としては、切り取ったばかりの兗州は、まだまだ不安定であり、スキを突かれて攻められた、という単純なことだろう。
沛相の袁忠は、兗州牧を自称した曹操の配下に入ってしまったが、もとは陶謙の同盟に参加したひと。曹操が兗州にくるより前から、沛相をやっており、にわか州牧に上から押さえつけられるのに反発して、まだ陶謙に親しんだのでは。
士大夫との対立という、政権の構造的な問題でモメることができるのは、もうちょい先ではないか。まだ、休む間もなく走り回る、軍隊の群れに過ぎない。石井先生の推測でも、彼らの死は196年に推測されており、兗州が叛くよりも後である。
兗州は、意外と縁が薄い。
曹操が兗州に献帝を迎えず、許県を選んだ理由は何か。①袁紹に近くて危険(袁紹から鄄城に遷都せよと要請があったぐらいだ)、②平定したばかりの潁川のほうが、荀彧のおかげで、兗州よりも現地の士大夫が協力的(しかし官渡のときは、潁川・汝南は、ほとんどが袁紹を支持した)という、消去法による、心許ない理由である。
曹操は、官渡のころ、きっと兗州を掌握できていない。李典のように、個別に、故郷を棄てて曹操に合流する豪族がいたくらいで。逆に、故郷の兗州から切り離されないと、曹操を頼ったことにならない。当時、程昱を孤城に置き去りにするぐらいで。袁紹は、曹操を倒せば自動的に(曹操のための対抗する勢力など少なく)兗州を接収できると思ったから、まっすぐ曹操に向かったのだ。


◆呂布の起兵
興平元年(194) の夏、荀彧・程昱に鄄城を任せ、第二次 徐州攻めへ。張邈の弟の張超、濮陽を守る陳宮、従事中郎の許汜(南陽のひと)、王楷が、張邈に決起をうながす。『陳志』呂布伝。
呂布が(陳宮の守る)濮陽に入ると、兗州の郡県は降伏。
荀彧は、東郡太守の夏侯惇、程昱、兗州従事の薛悌、

『陳志』巻十四 程昱伝:太祖征徐州,使昱與荀彧留守鄄城。張邈等 叛迎呂布,郡縣響應,唯鄄城、范、東阿不動。布軍降者,言陳宮欲自將兵取東阿,又使氾嶷 取范,吏民皆恐。……時氾嶷已在縣,允乃見嶷,伏兵刺殺之,歸勒兵守。昱又遣別騎絕倉亭津,陳宮至,不得渡。昱至東阿,東 阿令棗祗已率厲吏民,拒城堅守。又兗州從事薛悌與昱協謀,卒完三城,以待太祖。太祖 還,執昱手曰:「微子之力,吾無所歸矣。」乃表昱為東平相,屯范。
『三国志集解』程昱伝をやりましょう。
『陳志』巻十五 梁習伝に、済陰の王思の話があって、裴注『魏略』苛吏傳に、〔王〕思與薛悌 、郤嘉俱從微起,官位略等。三人中,悌差挾儒術,所在名為閒省。嘉與思事行相似。 文帝詔曰:「薛悌駁吏,王思、郤嘉純吏也,各賜關內侯,以報其勤。」とある。曹操の初期メンバーで、酷吏であったことが分かる。気が合ったから、曹操のピンチでも裏切らなかった。
『陳志』巻十七 張遼伝に、太祖既征孫權還,使遼與樂進、李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯,教與護軍薛悌,署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬眾圍合肥,乃共發教。とあり、薛悌がいちばん目立つ場面ではないか。
『陳志』巻二十二 陳矯伝に、「初,矯為郡功曹,使過泰山。泰山太守東郡薛悌異之,結為親友。戲謂矯曰:「以郡吏 而交二千石,鄰國君屈從陪臣游,不亦可乎!」悌後為魏郡及尚書令,皆承代矯云。」とある。
『陳志』巻二十五 高堂隆伝に「高堂隆字升平,泰山平陽人,魯高堂生後也。少為諸生,泰山太守薛悌命為督郵。郡 督軍與悌爭論,名悌而呵之。隆按劍叱督軍曰:「昔魯定見侮,仲尼歷階;趙彈秦箏,相如 進缶。臨臣名君,義之所討也。」督軍失色,驚起止之。後去吏,避地濟南」とあり、わりに出番がおおい。
『晋書』巻一 宣帝紀にまで、「時軍師杜襲、督軍薛悌皆言明年麥熟,亮必為寇,隴右無穀,宜及冬豫運。帝曰:「亮再 出祁山,一攻陳倉,挫衄而反」とある。魏軍の重要人物である。

東阿令の棗祗とともに守る。

武帝紀の建安元年:是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。
『陳志』巻十六 任峻伝に、「是時歲飢旱,軍食不足,羽林監潁川棗祗 建置屯田,太 祖以峻為典農中郎將,〔募百姓屯田於許下,得穀百萬斛,郡國列置田官〕,數年中所在積 粟,倉廩皆滿。官渡之戰,太祖使峻典軍器糧運。賊數寇鈔絕糧道,乃使千乘為一部,十道 方行,為複陳以營衞之,賊不敢近。軍國之饒,起於 棗祗 而成於峻。」
『三国志集解』で任峻伝も、やるべきだ。
任峻伝の注釈で、魏武故事載令曰:「故陳留太守 棗祗,天性忠能。始共舉義兵,周旋征討。後袁紹在冀州,亦貪祗,欲得之。祗深 附託於孤,使領東阿令。呂布之亂,兗州皆叛,惟范、東阿完在,由祗以兵據城之力也。後大軍糧乏,得東阿以 繼,祗之功也。及破黃巾定許,得賊資業。
東阿令として、呂布軍を防いだことが、触れてある。任峻伝、やろう。


袁紹は、配下の朱霊を、加勢につかわす。曹操は、家族を鄴に送ろうとするが(武帝紀)、河南制圧の基本戦略は水泡に帰す。程昱が説得して、踏み止まる。p170
興平二年(195) 春、呂布側の済陰太守の呉資が守る、定陶県を攻めて、呂布を配送させた。夏、薛蘭・李封を破る。

p170 に戦闘の経過がある。『陳志』武帝紀・荀彧伝・李典伝など。
李典伝:太祖遣乾還乘氏,慰勞諸縣。布 別駕薛蘭、治中李封招乾,欲俱叛,乾不聽,遂殺乾。太祖使乾子整將乾兵,與諸將擊蘭、 封。蘭、封破,從平兗州諸縣有功,稍遷青州刺史。
『三国志集解』李典伝もやろう。
わりと淡々と戦況が書かれており、登場人物の分析がない。
武帝紀に、「秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽」とあるが、李進は、李典と同族だろうか。


陶謙は、公孫瓚の青州刺史である田楷に助けを求める。劉備が徐州牧に。曹操は、兗州より徐州を優先しようとするが、荀彧が猛反対。
ここで石井先生の名言。
徐州・兗州の戦いは、曹操の欠点を浮き彫りにする。目先のことに捕らわれ、大局を見失いがちな性格。理性よりも感情のひと。悪くいえば、お調子者。少年時代の「軽佻浮薄」という評価は、正しい見方なのだろう。ただ短所を自覚しており、よく荀彧ら周囲の意見に耳を傾けた。『魏の武帝 曹操』171p

兵が麦の刈り取りに行ったとき、呂布と陳宮が来襲。武帝紀にひく『魏書』に、

魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。屯西有大隄,其南樹木幽 深。布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外。布 益進,乃令輕兵挑戰,既合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其鼓車,追至其營而還。

などの戦いがあり、p172 兗州を回復。

張超は、陳留の雍丘県を守っており、8月、曹操が包囲。張邈は袁術に救援する途中、殺される。12月、張氏の一族が死んだ。

◆臧洪の死
袁紹の配下、東郡太守の臧洪は、張超に抜擢され、酸棗で登壇した。張超を救いたい臧洪だが、曹操と同盟関係にある袁紹は、臧洪の出兵を認めない。臧洪は、袁紹と絶縁し、東武陽(かつて曹操が東郡太守として駐屯)で、1年も籠城した。


兗州支配は盤石となり、十月、朝廷から兗州牧を受ける。
呂布を凌いだ鄄城は、黄河沿いの諸県のうち、「最も峻固」だが、司馬越が駐屯したとき、崩れた。
『水経注』河水五に、

河水又東逕鄄城縣北,故城在河南十八里,王莽之鄄良也,沇州舊治。魏武創業始自于此。河上之邑最爲峻固。《晉八王故事》曰:東海王越治鄄城,城無故自壞七十餘丈,越惡之,移治濮陽。

幸運は、曹操によって使い果たされた。151209

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第15回 第二次 四頭政治と、天子奉戴

李傕・郭汜らの長安支配

董卓が死んだとき、討虜校尉の賈詡(武威のひと、147-223)が、李傕らを引き留める。閻忠に「張良・陳平のような奇才」といわれた。175p
初平三年(192) 六月、王允の守る長安は陥落。落城の混乱のなか、太常の种払(种暠の子)が、献帝のそばを離れず、戦死した。

曹騰-种暠の人脈のところで、列伝を読みました。

長安には李傕・郭汜・樊稠、鎮東将軍の張済は弘農に駐屯する。これを「四頭政治」とよぶ。p176

石井先生は、非常時に朝廷の制度がどうなるかに関心があるようだが、曹操の話は出てこない。曹操を主人公に小説をつくるとき、長安の李傕政権のことは、出さなくていいだろう。
丁沖・鍾繇・董承・董昭あたりから、くどくない程度に働きかけを。
主人公を袁術・曹操のいずれに設定しても、長安の李傕政権の話が書けない(主人公が現地にいない)。袁術は楊彪、曹操は丁沖という義兄弟が長安にいるが、彼らの視点に切り替えても、なお「余談」な感じになる。
石井先生の『曹操』も8ページにわたり、曹操がルスになり、年表風にして史実を消化する。先生がほかに年表にしてしまうのは、袁譚・袁尚を討伐するところ。ここも小説にするときは、軽く流そう。


興平元年(194) 三月、四頭政治に危機。諌議大夫の种邵(种払の子)が、征西将軍の馬騰・鎮西将軍の韓遂を手引きして、長安を襲撃。董卓に官位を授けられていた。益州牧の劉焉が、子を送って中原に介入。
韓遂・馬超は、中央政界にツテがない。劉焉は宗室として九卿をつとめた。劉焉が献帝を奉じて洛陽に還都すれば、関東の諸将は大義名分を失い、兵を説かざるを得ない。絶妙のタイミング。敗北して、劉焉は病死して、劉璋が嗣ぐ。
五月、前代未聞の「六府」が出現する。

制度の話がしたいのであって、曹操は不在である。また曹操は、丞相・御史大夫と、三公クラスの員数を減らす方向に制度変更をする。
先生は書いておられないが、李傕政権のように、権限が拡散することを、少なくとも曹操は反面教師にして防止したとも言える。献帝が、行き先を定めずに転がる爆弾なら、曹操の周囲でも、三公クラスが濫発される可能性がゼロではない。曹操は「董卓の後継政権」であり、すなわち「李傕の後継政権」でもあるから。


第二次同盟に担がれた朱儁は、「李傕・郭汜のたぐいなら、赤子の手をひねるようなもの」という。

『范書』列伝六十一 朱儁伝「會李傕用太尉周忠、尚書 賈詡策,徵儁入朝。軍吏皆憚入關,欲應陶謙等。儁曰:「以君召臣,義不俟駕,況天子 詔乎!且傕、汜小豎,樊稠庸兒,無他遠略,又埶力相敵,變難必作。吾乘其閒,大事可濟。」 遂辭謙議而就傕徵,復為太僕,謙等遂罷。

このころ、四頭政治のもとで太尉を拝命した皇甫嵩も死ぬ。

『范書』列伝六十一 皇甫嵩伝「及卓被誅,以嵩為征西將軍,又遷車騎將軍。其年秋,拜太尉,冬,以流星策免。復 拜光祿大夫,遷太常。尋李傕作亂,嵩亦病卒,贈驃騎將軍印綬,拜家一人為郎」

黄巾鎮圧の立役者になったのに、重要な局面ごとに判断を誤り、

皇甫嵩は帝位を勧められたが、断った。長安で董卓に屈服して、董卓と戦う兵を起こさなかった。朱儁は、陶謙に担がれたが、ほいほい長安に入って官職を受けてしまった。

李傕・郭汜のような小者のもとで、非業の死。群雄の先駆者であるが、最後まで漢王朝の権威にこだわり、柔軟な対応を欠いた。

……という人物として、皇甫嵩・朱儁を描きなさいと。


洛陽への還都

李傕は大司馬となるが、賈詡らの謀略により、羌胡兵が帰郷してしまう。鎮東将軍の張済が、李傕・郭汜を仲裁させ、弘農郡への行幸を承認させる。離合集散の年表は、179p-180p

長安の脱出は、郭汜と張済が連合し、李傕を閣外に放りだして実現。しかし郭汜も、張済の地盤である弘農にいくのは反対で離脱。まもなく、廷臣と白波諸将が手を握る。
董承は、董卓の一門と遇されたが、董太后の甥という外戚。董卓の死後、廷臣寄りに転向した。p181

矛盾する史料があると、高島俊男氏が『三国志 きらめく群像』で指摘していたが、石井先生は、それをすべて1つに繋げた。その人物像でいきましょう。曹操を殺しにくる人なので、霊帝期・董卓期から、きちんと登場させておこう。


◆楊定のこと
楊定は董卓の故将であるが、司隷校尉の胡軫とともに「涼州の大人」と称された士大夫。もしくは京兆の藍田県ふきんに本拠を構える、大姓豪族。

京兆の楊氏は、どこが出典なのか分かりませんでした。


『范書』巻九 献帝紀の興平二年、

秋七月甲子,車駕東歸。郭汜自為車騎將軍,楊定 為後將軍,楊奉為興義將軍,董承為 安集將軍,並侍送乘輿。張濟為票騎將軍,還屯陝。八月甲辰,幸新豐。冬十月戊戌,郭汜 使其將伍習夜燒所幸學舍,逼脅乘輿。 楊定、楊奉與郭汜戰,破之。壬寅,幸華陰,露次道 南。


『范書』董卓伝、『陳志』董卓伝に、楊定が登場するが、「涼州大人」とは分からず、董卓の故将としか情報が得られない。
『陳志』董卓伝にひく『九州春秋』に、

九州春秋曰:傕等在陝,皆恐怖,急擁兵自守。胡文才、楊整脩皆涼州大人,而司徒王允素所不善也。及李傕之 叛,允乃呼文才、整脩使東解釋之,不假借以溫顏,謂曰:「關東鼠子欲何為邪?卿往呼之。」於是二人往,實召兵 而還。

とあり、胡軫=胡文才。楊定=楊整脩。とヒモづけているのか。これなら、「涼州大人」が分かる。

盧弼はいう。胡軫は、あざなを文才という。胡軫は、『三国志』孫堅伝にひく『英雄記』にある。『三国志』張既伝にひく『三輔決録注』にもある。 恵棟はいう。楊整脩は、楊定である。興平元年(193)、安西将軍となった。興平二年(194)、後将軍にうつった。章懐はいう。「大人」とは、大家、豪右だ。とうとぶ呼び名でもある。

中堅将校にすぎない李傕・郭汜と異なり、高級幹部だったと推測される。四頭体制でも優遇され、192年に鎮南将軍、194年に安西将軍に。立場は廷臣に近く、旧董卓集団の代表者として、担ぎ出されたのだろう。

馬超とともに起兵するなかに、楊氏はひとり、安定郡の楊秋。京兆の楊氏という説を採用しなければ、楊定と楊秋を同族に結ぶことができるが……、ありふれた姓なので、扱いに困る。
ともあれ、こだわってみたものの、曹操とほとんど接点がないから、作中で活躍させるのが難しい。董卓の周辺の話を書くなら、人物を「発掘」して、胡軫とともに前面に出せるのだが。


◆安邑政権
興平二年末、河東太守の王邑と、河内太守の張楊が、政権に加わる。
『范書』董卓伝に、

帝乃御牛車,因都安邑。河東太守王邑奉獻綿帛,悉賦公卿以下。封邑為 列侯、拜胡才征東將軍,張楊為安國將軍,皆假節、開府。

とあり、注釈に、「邑字文都,北地涇陽人,鎮北將軍。見同歲名」とある。 董卓の故将と推測されるが、孝廉にあげられた経歴をもつ士大夫。許都で大司農となる。

『陳志』武帝紀の建安十九年の裴注に、

獻帝起居注曰:使行太常事大司農安陽亭侯 王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、 掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎 貴人升車。

とあり、ここから王邑が、行太常事・大司農だったことが分かると。

楊奉・韓暹が、献帝を護衛して洛陽に入り、張楊・董承とともに「第二次 四頭政治」をつくる。
大将軍・司隷校尉の韓暹と、衛将軍の董承が内政に参与する。大司馬の張楊は、河内の野王県に。車騎将軍の楊奉は、河南の梁県に。微妙なバランスのうえに成り立つ。それぞれ強力な外援を得て、発言力がほしい。p183

曹操の輔政

そのころ曹操は、豫州の制圧に乗り出す。
建安元年(196) 正月、陳国の武平県で、袁術の任じた陳相の袁嗣を降す。許県の周辺には、「汝南・潁川黄巾」という残党がいる。袁術・孫堅連合を支援した。
二月、許県で黄巾を降伏させる。戦果は、彼らから「資業」を奪ったこと。

『陳志』巻十六 任峻伝にひく『魏武故事』に、後大軍糧乏,得東阿以 繼,祗之功也。及破黃巾定許,得賊資業。當興立屯田,時議者皆言當計牛輸穀,佃科以定。とある。出典はここです。

農地・農具・耕牛などの生産手段をふくむ。屯田制の基礎。曹操は、建徳将軍となる。

長安のことは、毛玠に献策されてから、奉迎が懸案事項。
長安に、同郷の丁沖、荀彧の旧友である鍾繇がいる。勤皇の態度を示しつつ、パイプを利用して裏工作。四頭政治が発足したころ(初平三年(192) 六月)、河内太守の張楊を介して、長安に使者を派遣。

張楊の幕下にある、騎都尉の董昭(済陰のひと、156-236)。袁紹に仕えるが、張邈との内通を疑われ、張楊のもとにいた。縦横家タイプの策士。 「袁紹と曹操は、いずれ対立します。いま曹操は弱いですが、天下の英雄です。曹操の使者を通して、恩を売るべきです」という。のちに魏建国の仕掛人。魏文帝の侍中となり、同僚の蘇則に「私のひざは、オベッカ使いの枕ではない」とやり込められる(蘇則伝)

長安でも、鍾繇が李傕を説得し、曹操は連絡に成功。

関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝
鍾繇伝:傕、汜等以為「關東欲自立天子,今曹操雖有使命,非其至實」,議留太祖使,拒絕其意。繇說傕、汜等曰:「方今英雄並起,各矯命專制,唯曹兗州乃心王室,而逆其忠款,非所以副將來之望也。」傕、汜等用繇言,厚加答報,由是太祖使命遂得通。

しかし、陶謙・劉表・袁術でさえ、長安に使者を送っている。ほかの群雄を出し抜いたのではない。

ここが重要!曹操の革新性・独自性を見つけるために、長安と連絡を取ったことを過大評価しそうになる。しかし、それは誤り。誰でもやっていることを、やったのだ。強いていうなら、兗州に進出した直後から、早くも袁紹とは別の経路で、長安と交渉したことに着目すべきだ。
しかし、四頭体制が成立した直後、交渉が始まったというのは、やや推測が混じっており、よく分からない。毛玠の「天子を奉戴せよ」という発言も、遡及的に史料に記されただけで、もっと遅いような気がする。


献帝が長安を離れると、対処が実際問題となる。袁紹は、安邑の朝廷に、郭図を派遣した。もどった郭図は、鄴への遷都を進言するが、決断できなかった。廷臣に掣肘されるのを嫌ったから。

『陳志』袁紹伝に「初,天子之立非紹意,及在河東,紹遣潁川郭圖使焉。圖還說紹迎天子都鄴,紹不從」とある。基本史料にもとづいた、親切な解説。
石井先生は、この役割を「一説では沮授」とするが、これは『范書』袁紹伝。ややこい。

曹操のもとには、丁沖から、天子奉迎をすすめる密書がもたらされる。『陳志』荀彧伝にて、荀彧が奉迎を勧める。

丁沖からの密書、という部分、出典さがし中。

荀彧は、高祖の故事をもちだす。曹操が高祖なら、献帝は楚義帝。天下統一という大義のためなら、たとえ天子でも利用しようとする。けっして漢の純臣ではない。曹操にしたがう原理も同じ。曹操の天下平定が遠のいたとき、関係が破綻するのは当然。

荀彧の死因は、漢王朝がらみでなく、曹操が天下統一を辞めたから。この原作の設定で、荀彧という変数(算数の用語)を固定すると、議論がしやすくなり、他の多くのことが見えやすくなりそう。曹操の小説を描いてみようと思っても、話が膨大になりすぎる。まず、原作を設定して描いてみる、という手法は有効。


はじめに、孤立した白波の楊奉が、曹操に働きかける。董昭は、曹操の手紙をでっち上げ、提携を勧める(董昭伝)。有頂天になった楊奉は、曹操を鎮東将軍とする。若き日に夢見た征西将軍と、ほとんど同格。父祖の費亭侯も認められる。建安元年六月。

楊奉は、内面を描く必要はなくて、「第二次 四頭政治で、いちばん結びつきが弱くて、つけいるスキがあるところ」という程度の扱いでいい。史実でも、曹操は、楊奉をその程度にしか扱っていない。劉備だか誰だかに殺された。


洛陽にいる韓暹・董承は、一触即発。押されぎみの董承は、盟友の張楊を切りすて、曹操を呼びよせる丁沖・鍾繇が仲介役を務めたのだろう。第二次 四頭政治は、わずか1ヶ月あまりで崩壊。

曹操を呼び寄せる理由が、「曹操が勤皇だから」ではなく、押されている側の「四頭」の一員が、自勢力の見方を増やすためである。曹操は、たまたま近くにいた(潁川にいた)から、頼られた。張楊・王邑も、同じ理由で頼れている。


同年八月、曹操は、韓暹・張楊の罪を弾劾。韓暹は、楊奉のもとに出奔。曹操は、司隷校尉・録尚書事となる。25年におよび、専権のはじまり。

この時点では、官職のバーゲンセールの延長。まだ、曹操の権力が確立したと見ることはできないんだろう(遡及的に画期を探すなら、ここだというだけで)

賞罰の大権をふるう。侍中の丁沖・种輯、尚書僕射の鍾繇ら、13人を列侯とする。p187

献帝の移動の過程を、すべて描くことはできないが、第二次 四頭体制ができて、楊奉から曹操に連絡が入ってからなら、虚々実々の駆け引きを描いたら楽しそう。丁沖・种輯・鍾繇は、みんな故郷・家柄・官歴が違う。彼らが、どのように活躍するか。


だが、梁県に楊奉・韓暹が健在。董承ら廷臣は、腹の底でなにを考えているか分からない。洛陽は居心地のいい場所ではない。
董昭とはかり、楊奉をあざむき、許県へ。楊奉は、腹いせに許県の南に出没して、ゲリラ。曹操は挑発にのらず、十月、楊奉の駐屯する梁県をめざす。

曹操は、徐晃を得る。

徐晃は、本文の最後、p326 に出てくる。関羽のとこ。

九月、太尉の楊彪、司空の張喜を罷免。十月、袁紹を太尉、鄴侯。十一月、袁紹を大将軍。
前漢の霍光より、輔政の重臣は、大将軍に就任するのが通例。だが曹操は、手垢のついたものより、司空・車騎将軍の兼任のほうが、新鮮味がある。董卓を踏まえたものだろうが、三公が征討にゆく決意を示したことは、宰相の権威をたかめ、徐詳復活の足がかりとなる。司空府は、事実上の政府=覇府として機能した。p190
次回、屯田制。151209

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