表紙 > 人物伝 > 孫呉は二の次、洛陽が気がかりな羊祜伝

3)鍾会との衝突

曹髦、曹奐と距離を保っている羊祜です。

鍾会のひとり相撲

鍾会は、羊祜をライバル視して妬んだ。
対等に張り合ったということは、2人に共通する部分と、異なる部分が、最低1つずつなければならない。なぜか。まるで次元が違う人間なら、そもそも眼中に入らない。完璧に待遇が同じならば、エンヴィは生じない。そういうわけ。

共通点は、司馬昭に重く用いられ、高位を与えられていることだ。魏朝の中にいながら、司馬昭に近い。のちに『晋書』が編まれたら、建国の臣に数えられるべき位置にいる。
ちなみに鍾会は『晋書』に列伝はなくて、『三国志』の中で、魏を裏切った人物として列伝が組まれている。だがそれは、後の結果が招いたこと。曹奐の時代の鍾会は、司馬昭の懐刀だ。

異なる点は、家柄と貢献度だ。
鍾会は、鍾繇の末子だ。さらに遡れば、後漢末の名士、鍾皓もいる。出身地は頴川で、まさにサラブレッド。名士のスターだ。
一方で羊祜は、
「世吏二千石、至祜九世」
である。歴史の長さこそ立派だが、鍾氏よりは見劣りがする。 鍾会はプライドが高い。まるで家格の違う羊祜と、待遇の差がついていないことが、気に食わなかったに違いない。
また鍾会は、司馬昭のためにアイディアをたくさん出している。淮南の叛乱のとき、軍師をやった。労力の出し惜しまない。
だが羊祜は、どうか。
羊祜は、曹爽、曹髦、曹奐に接近していないが、同時に司馬昭のために働いてもいない。その証拠に、司馬昭のためを思った発言は、羊祜の列伝に出てこない。荀攸のような、
「歴史家が知りえない、極秘の進言」
があったことも、強く仄めかされていない。司馬昭が大将軍になったとき、与えられた官位を辞退した。曹髦への攻撃に、冷淡だった。羊祜は、司馬昭からも距離を取っていたように見える。
「家柄が上の私が、こんなに熱心に働いているのに、羊祜と横並びか・・・」
鍾会は、そりゃあ不満に感じたでしょう!

さらに鍾会が、ストレスを溜める要因がありそうだ。
「鍾會有寵而忌、祜亦憚之」
と『晋書』にある。鍾会は、羊祜が司馬昭に寵愛されたから「忌」んで、羊祜は鍾会を「憚」った。このニュアンスの違いを見落としたくない。 鍾会が食って掛かろうとしても、羊祜は軽くいなしただろう。争いごとに加担して、身を危うくするようなことを、羊祜はしない。羊祜は、曹髦のように、
「喋りすぎ系」
の性格だから、近づいてはいけない。鍾会から、赤黒い怒気がモクモクと立ち上っていたに違いない。正面衝突できたら、まだ鍾会はラクなのに。

鍾会と羊祜の対称性

司馬氏の事情から、鍾会と羊祜を見る。
なぜ羊祜が、不相応に得をしているか、簡単に分かる。司馬氏は、名士の同僚の中で、抜き出て皇帝にならなければならない。つまり鍾氏のような名門は、それなりに利用しつつも、掣肘しておかねば邪魔になる。取って代わられるリスクがあるから。
その点で羊祜は、使いやすかった。夏侯覇が亡命した今、司馬昭が、
「キミの名声は認めないよ」
と一言だけ言えば、羊祜は地盤を失うのだ。こういう便利なコマこそ、鍾会にぶつけて利用しない手はない。

鍾会は、司馬昭からの扱いに物足りなさを感じてか、司馬昭に取って代わろうとしてか、成都で叛乱した。
鍾会が誅殺されると、羊祜は鍾会の代わりに軍事を総領させられた。鍾会の後任が羊祜だったのだから、司馬昭の中で2人は同レベルの位置づけをされていたと考えていい。対称だ。ライバルだ。
羊祜は荀勗とともに、機密を担当した。荀氏も名士のスターだが、曹操との関係が悪化してから、落ち目だった。司馬氏は、名士の主流を叩き、名士の亜流を味方に取り込んで、自分の周りを固めた。

司馬炎が受禅すると、羊祜に高位を与えようとした。だが羊祜は辞去して、王祐、賈充、裴秀より上に昇ろうとしなかった。
羊祜は、名士の嫉妬深さやプライドを知っていた。争いのタネに近づいてはいけない。逆説的だが、こうして弁えている羊祜だから、司馬氏にとっては使いやすく、高位を授けやすい。

荊州に出たのは保身

司馬炎は、孫呉を滅ぼしたいと思っていたから、羊祜を都督荊州諸軍事、仮節とした。
孫呉を討つべきか、討たざるべきか。この議論は、西晋内部の権力闘争が形を変えたものだ。代理戦争である。純粋に戦略的な見地から喋っている人は、少ない。っていうか、いない。

出鎮した時期だけ見れば、羊祜はもっとも急進的な征呉派に見える。
もともと、
「蜀漢を滅ぼした勢いで、孫呉を滅ぼす」
というのが、もっとも円滑な展開だった。勢いに乗るというのは、古典的だけど有効。だが鄧艾が騙され、鍾会が決起して、その可能性が潰れた。その次に孫呉に対峙したのが、羊祜だ。
 ――羊祜は静かな顔をして、よほど天下統一にご執心だったか?
ちがう。
なぜ羊祜が荊州に出たかと言えば、洛陽から距離を置きたいからではないか。洛陽にいたら、魏晋革命の直後でギスギスした雰囲気に呑まれ、足を引っ張られる可能性がある。地方に出てしまえば、安全である。
この振る舞いは、司馬懿に似ている。司馬懿は宮廷政治が苦手で、西東北にそれぞれ遠征して、身を守った。

羊祜を外に出した理由は、司馬炎の側にもあったが、その話は「8)司馬氏の外戚だから」で書きます。まずは羊祜視点で考えます。

次回、羊祜が荊州で名将ぶりを発揮します。