8)司馬氏の外戚だから
やっと呉との最終決戦かと思いきや・・・
居心地の悪かった真因
こう『晋書』は言うけれど、気持ち悪い。
なぜ同母姉が死にそうなら、死に目に駆けつけなかったか。不仲なんて記述は、どこにもない。不仲でも、仲良しぶるのが、儒教のマナーだろ。
また、もし荊州戦線を離れられないなら、なぜ死んだ直後に洛陽に行けたのか。べつに呉に異変が起きたわけじゃない。情勢は同じだ。
となると、ここは別に、姉の死に際を無視した理由の説明が必要だ。
おかしな物言いだが、
「同母姉が死んだから、羊祜は洛陽に帰ることができた」
とすれば、辻褄が合うと思う。
どういうことか。
別にタイトルを立てて検討したいが、司馬炎には後継問題がある。候補は2人。嫡子の司馬衷と、10歳下の弟・司馬攸だ。ふつうなら司馬衷が継げば良いが、いかんせん司馬衷がバカだ。
また複雑なことに、司馬攸は司馬師の養子だ。
つまり、司馬炎から司馬攸を見たら、
「弟のくせに、伯父の家を継いだ」
ということになる。ねじれ現象だ。「長幼ノ序」みたいな儒学の宝刀を持ち出しても、司馬衷が負ける可能性がある。
羊祜の同母姉は、司馬師に嫁いだ。すなわち羊祜は、司馬師の義弟で、司馬攸の義父である。司馬衷を皇帝にしたい司馬炎にとって、羊祜は司馬攸側の人間だから、邪魔だった。
羊祜が荊州に避難し続けなければならなかったのは、後継問題のため、司馬炎から疎まれていたからだった。
司馬炎の後継問題と羊祜の絡みは、渡邉義浩『「三国志」武将34選』で見たことがあった。だが、ぼくの羊祜像と結びついていなかった。この期に及んで繋がった。
今さら書き直すのはしんどいので、前ページ以前は、そのままとします。矛盾が出てくるわけじゃないし。すみません。
司馬氏の外戚でなくなった
司馬昭のとき羊祜は、諸臣と距離を置きながらも、いちおう中央に留まっていた。司馬昭は、司馬師の系統に家督を返上するつもりだったから、羊祜は尊ばれこそすれ、疎まれることはなかった。
だが、
司馬炎が即位すると、羊祜は荊州に出された。
このときの司馬炎の思惑を想像すれば、
「司馬攸の威勢を削ぐために、外戚の羊祜を地方に遠ざけよう」
となる。
司馬昭の羊祜対応を変更し、積極的に邪魔がった。
また羊祜の思惑からしても、地方に出ているほうが安全だから、望むところだった。司馬炎と羊祜の利害が一致していないと、
「いちど羊祜に中央召還の命令が下ったが、羊祜が荊州残留を主張した。羊祜は、洛陽で高位を授けられつつ、荊州への留任が認められた」
という、おかしな現象は起こらない。
羊祜の姉が死んだ。司馬師の家族は、解散である。司馬攸は、
「司馬師の養子ではなく、司馬炎の弟」
としての色合いが強くなった。外戚としての羊氏に、迫力がなくなった。だから羊祜は、安心して洛陽に帰ることができた。司馬炎は、それを受け入れてくれた。
初めて荊州に着任したとき、羊祜はリラックスしまくっていたが、実は方面司令官は大変な仕事なのです。今さら言うまでもないことですが、敵国を相手にしなければならない。もし権力闘争が吹きすさんでいなければ、洛陽の方が居心地がいいに決まっている。
羊祜の死
羊祜は、いよいよ病気が重くなった。皇帝への謁見に耐えられないので、張華が遺言を聞きに行った。
「私の後任は、杜預にして下さい。孫皓が皇帝をやっているうちに、呉を滅ぼしてしまうべきです。次に名君が立ってしまったら、滅ぼせなくなるかも知れません」
・・・というわけで、
次は「杜預伝」を読まなければならなくなった(笑)杜預がどういう人で、羊祜とどういう関わりがあったのか明らかにしないと、羊祜を理解したことにはならない。
西晋の生きづらい官界で、司馬師・司馬攸の外戚という難しい立場まで背負わされ、荊州で身を守った羊祜。かなり屈折した心理過程を歩んだだろうが、根本のところで誠真な人だったから、生き切ったのでしょう。
280年、羊祜が選んだ王濬が、建業を占領。
司馬炎は泣涕して、
「これは羊祜の功績だ」
と言った。孫呉を討つ道筋を作ったことを褒めたのか、王濬に益州で船を造らせたことを褒めたのか。司馬炎は現金なもので、死人は皇帝権力を脅かさないから、手放しに賞賛する。
ちなみに羊氏は、もともとの寒門ぶりを脱却することができず、羊祜のあとはパッとしない。求心力もなく、めぼしい才能の持ち主も出ず、グズグズとして終わり。090802