4)謀反を着せられる危機
鬼や蛇の住んでいる洛陽を逃げ出して、荊州に出鎮した羊祜。三国ファンがよく知っている活躍ぶりが、始まります。
荊州の経営は、反動だ
「人が死ぬのは天命だ。建物が悪いのではない」
と言って、余計な公共事業を減らした。
ろくに備えのなかった石城に兵糧を貯めた。開墾をして、産業を興した。
羊祜は鎧を着ず、皮衣を帯をゆるめて着流し、軽装でウロウロした。ろくに供を付けずに、ハンティングやフィッシングを楽しんだ。門番から、自重して下さいと諌められると、詫びた。
・・・リラックスし過ぎだ。
度量が大きいから、敵地と接していても、ゆったり過ごせる。そう羊祜を評価することは可能。だが、油断し過ぎである。
なぜか。
きっと羊祜は、荊州では政治闘争に気を配らなくていいから、気が抜けたんだ。家柄も功績も低いのに、高位にあった。人と人の距離が近い宮廷内では、そういう人は潰されやすい。
処世術として、人一倍の謙遜を心がけた。羊祜はきっと人柄のよく練られた人だから、自然と謙虚に振る舞えたんだろう。だが、人は心のどこかで、自分が一番だと思っている(とぼくは思う)。気兼ねせず、奔放に生きてみたい。洛陽で耐え忍ぶストレスは、羊祜ほどの人でも、ゼロでなかった。
洛陽にいたとき、具体的な政策の提言が、じつは1つもなかった羊祜。だが荊州では、積極的に自らの考えを口にして、実現させている。膨大な量の自己主張である。
これだけ雄弁に政策を思いつける人が、司馬氏の下で何も言っていなかった。ギャップが大きすぎる。人は簡単に変わるものではない。羊祜はずっと我慢して、考えを隠していたと推測できる。曹爽、曹髦、曹奐という魏末の激動期に、羊祜ほどの人が、ノーアイディアということは、200%あり得ない。
羊祜は、自分を殺すことが、とても辛かった。多策な荊州経営は、抑圧された中央生活の反動である。
羊祜は晋に背くか
羊祜は、車騎将軍を加えられ、三公と同じく開府を許された。
辞退した。
「功績のない人が高位につくと、人望を失い、職務を怠るようになります。それに今、私を荊州から外したら、孫呉への作戦にデメリットが生じるでしょう。私にひき続き、荊州をお任せ下さい」
省略しまくっているが、列伝では、古典をあちこちから引いてきて、鄭重に鄭重に、お断りを申し上げている。好意を押し戻すだけにしては、叮嚀すぎる。だが、この叮嚀さに理由がないわけではない。
昇進は、嬉しいことばかりではない。
かつて淮南を守って孫呉に備えていた諸葛誕は、司馬昭から、
「司空に任じる」
という辞令をもらったとき、挙兵に踏み切った。地方で力を付けすぎた人から軍権を剥奪するには、昇進させて中央に呼び戻せばいい。中央にノコノコ戻れば、地方で扶植した勢力はリセットされる。中央復帰を拒めば、謀反の疑いをかければいい。
いつもの司馬氏の得意技を、羊祜は仕掛けられたと考えたい。
ネタバレすると羊祜は、荊州で叛乱せずに、洛陽で病気で死ぬ。
だから予定調和的に、この開府の許可は、司馬炎からの他意のない褒賞に見える。だがそれは結果論に過ぎない。羊祜にとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。神経を細心に尖らせて、
「私は荊州に留まりたい」
と司馬炎に申し出ている。
羊祜の列伝で、この辺りを読むとき、ぼくらは緊張せねばならない(笑)もしも羊祜を小説にするならば、このクダリは、山場となるでしょう。
呉将の降伏
羊祜は昇進を辞退したが、却下された。つまり、昇進した。だが荊州に残ることはできた。列伝では、次の節が、
「及還鎭」
と始まっているから、荊州から洛陽、洛陽から荊州へと移動したと分かる。謀反の疑いを掛けられず、地方任務を解除されず。羊祜は危機を乗り切ったわけだ。諸葛誕には、できなかったことだ。
孫呉の武将で、西陵督の歩闡が降伏してきた。西陵は、元の呼び名を、
「夷陵」
というから、三国ファンに馴染みの地だ。何と言っても、赤壁の後に甘寧が孤立をした場所だ(笑)
「孫呉の裏切り者、歩闡を許すな!」
と急追をかけてきたのが、陸遜の子・陸抗だ。
陸抗は、歩闡を捕らえた。羊祜は、せっかく晋を慕って降伏してきた部将を収容することができなかった。
今は、孫皓と司馬炎のどっちに徳が備わっているか?という議論は関係ない。荊州で起きた出来事だけ見れば、歩闡が捕まったことは、西晋の天下統一のために、大きな後退である。
「晋は頼りにならない。孫皓が狂人でも、呉を離れられない」
という空気が蔓延してしまった。
「羊祜は失敗しましたよ。8万の兵を率いていながら、3万の陸抗に勝つことが出来ませんでした。降格すべきです」
という人は必ずいる。・・・やっぱり、いた。
羊祜は、平南将軍に下げられた。羊祜の指揮下の荊州刺史は、平民に落とされた。