6)派閥争い、始めます
陸抗と「八百長」にて対峙し、互いの王朝での立場を守りあっている羊祜。だが、中央からの追及が途絶えることはありません。
荀勖と馮紞
これだけ読むと、羊祜がヒーローで、荀勖と馮紞がバカモノになってしまう。だが、違うと思う。
魏晋革命により、権力が移り変わった。潮目を読むのが、とても難しい。
「昨日の忠義が、今日の大逆」
になっても仕方ない。権力者の顔色をどれだけ伺っても、伺い過ぎることはない。荀勖や馮紞は、物欲や名誉欲のためではなく、生き残りをかけて強者にへつらった。彼らを悪く形容しようとすれば、
「司馬炎に追従するしか能のない、邪悪な奴ら」
である。
荀勖や馮紞には、地方勤務を希望する、羊祜のごとき先見はなかった。また地方に出ても、戦闘の指揮を執る才能はない。荀勖や馮紞は、羊祜を羨ましく思いながら、羊祜をやっかみ、忌んだのではないか。
「正しいことを正しいと言える」
なんて場所は、この世の中に、それほど多くない。羊祜は荊州でまっすぐに生きているから、荀勖たちには疎ましい。
王戎と王衍
羊祜の従甥(いとこの子)は、王衍だ。西晋の貴族の名門だから、羊氏はそちらとも婚姻を結んでいたことが分かる。
ぼくが以前に、このサイト内で「王衍伝」を訳した。2008年8月1日だから、ちょうど1年前だ。偶然だなあ・・・
王衍は幼年より人に屈した態度を取ることがなく、異(他人と違って立派だ)とされた。
という話もあるんだが、
王衍が大人になってからも接点を持ったようだ。王衍が羊祜のところに来て、持論を吐いた。羊祜は、
「キミの話は、イマイチだね」
とケチを付けた。王衍は、バサッと衣の裾を翻して、不機嫌を露わにして辞去した。近代に例えるなら、さしずめ椅子を蹴って退場したってところだ。
王衍は、
「
初好論從橫之術」
と列伝にあるから、羊祜の外交について何か意見したのかも知れない。孫呉戦線は、羊祜が生きるスベだ。容易に口を出されたら敵わん。
羊祜は、王衍が退出した後、残された賓客に向って言った。
「王衍は評判を上げるだろうが、国の風紀を乱すでしょう」
後日談だが、王衍は老荘に傾倒した。
王衍は厭世的な性格だった。西晋の大尉・太傅として主力軍を率いたとき、
「私は、イヤイヤ役人をやってるんだ。敵を負かす作戦なんか、思い浮かばん。っていうか、天下に対する考えなんか、私にはないんだよ」
と投げ出してしまった。西晋は、石勒に致命的な打撃を受け、やがて滅亡へと走る。羊祜の言ったとおりの最期だった。
◆王衍
王衍と近い親類で、王戎がいる。同じ巻の列伝に入ってる。
王戎は荊州にいて、羊祜の配下に入っていた。歩闡が降伏してきたときに、王戎はミスをやらかした。結果、歩闡は陸抗に殺されてしまった。羊祜は軍法に照らし、王戎を斬ろうとした。
王戎は、実家の権力にモノを言わせて、助かった。だが王戎は、羊祜に怨みを抱くようになった。
王衍と王戎は、何かあるたびに羊祜の悪口を言った。当時の人は、
「王衍と王戎は、国家権力の中枢にいる。2人の王氏と対立するとは、羊祜は徳がないよなあ」
とウワサした。
いくら羊祜でも、パーフェクトな八方美人ではいられなかった。西晋の貴族の潰しあいに、巻き込まれつつある。
自分の派閥を育てる
羊祜に転機が来た。274年、陸抗が死んだ。荊州に籠もって、保身をするという裏技が使えなくなった。
組織もそうだし、組織の中にいる人間もそうなんだが、発展・拡張のレールに乗っている。後戻りすることも、降りることも、許されない。
もし挙兵したら、勢力は拡大し続けねばならない。成長を止めるのは、滅亡するときだ。いちど仕官したら、官位を上げ続けねばならない。停滞するなら、失脚である。失脚で済めば穏やかな方で、政敵に殺されることを覚悟しなければならない。
陸抗が死んだ。羊祜が選べるのは、2つに1つ。
「本気で孫呉を滅ぼして、西晋でナンバーワンになる。あらゆる政敵を排除できるパワーを手に入れる」
もしくは、
「敗残者として退く。謀略の餌食になる」
である。羊祜は已むにやまれず、前者を目指す。よほど破滅的な思考の持ち主じゃないと、後者を選べるものじゃない。
羊祜は、「孤高の聖将」の仮面を、かなぐり捨てた。
275年に、征南大将軍・開府儀同三司となり、自分で人材を抜擢・採用する権限を与えられると、自分の派閥を育て始めた。味方にしたのは、
「王濬」
である。
益州刺史の王濬は、任期が満了した。大司農となり、洛陽に帰ることになった。だが羊祜は、王濬を益州に引き止めた。王濬は実家がしょぼくて、実力で成り上がった人材である。羊祜と通じるところがある。
王氏という姓に惑わされるが、羊祜が怨まれている王衍・王戎と、王濬とは、別の一族である。
羊祜は、王濬を監益州諸軍事とし、龍驤将軍の位を与えた。
「呉を討つには、長江の上流から攻めるべきだ。キミは益州に留まって、大きな船を建造してほしい」
と羊祜は依頼した。王濬は着任した。
怪しげな童謡の曲解
ここで『晋書』は、変な話を載せる。呉に童謡が流行った。
「阿童や、刀を加えて長江を泳ぎなさい。陸上の獣はどうでもいいが、水中の龍には警戒しなさい」
童謡が天の意を伝えることは、三国志の世界で、よくある。董卓の死を予言したのも、童謡だった。
この童謡の中身は何か。孫呉に国防のポイントをアドバイスしている。ただ、目新しいことを言っていない。揚州は水運の発達した場所だから、攻めるには水軍が必要。主力となる水軍だけ注意すれば、呉が滅ぼされることはない。
一般論だ。ぼくでも言える(笑)
ところが羊祜は、この童謡を王濬に益州を任せる理由に使った。
「王濬は幼い頃、阿童と呼ばれた。彼に水軍を任せれば、孫呉を滅ぼすことが出来るだろう」
うーん・・・
あまり上手い話ではない。まず阿童は、呉を守る側として謡われている。攻め手に阿童がいても、成功が覚束ない。言葉遊びとして、ピンとこない。
また、阿童という呼び名が、ありふれ過ぎた。
「呉下の阿蒙」
で有名なように、「阿」の文字は、「××ちゃん」の意味だ。そして「童」の文字は、そのまま子供を表す。日本に例えるなら、
「この仕事は、少年時代に『ぼうや』と呼ばれた人が適任である。なに!キミは『ぼうや』と呼ばれていたか。偶然の一致だ、天のめぐり合わせだ。キミに任せたい」
というくらい、馬鹿馬鹿しい確率の話だ。
『晋書』が面白かれと思って童謡のエピソードを挿入したなら、そんなことは知らん。だが羊祜がこの童謡について発言したなら、
「洛陽の貴族たちを欺く口実が欲しかった」
ということにならないか。
「王濬は名族ではなく、自分と境遇が近い。来るべき派閥闘争に備えて、味方に引き入れたんですよ」
と露骨に宣言することは、世渡りとして下策である。だから羊祜は、神秘的のポエムを呉領から買い取ってきて、利用した。羊祜は律儀だから、ちゃんと著作権使用料を払ったのだと思われる(笑)