表紙 > 漢文和訳 > 漢文初心者の関羽ファンに贈る「関羽伝」の翻訳

07) 言葉ひとつで、関羽包囲網

荊州に残された、孤独な関羽。
ついに破滅に向けて走り出します。

骨を削る大手術と、グロい演出

羽嘗為流矢所中,貫其左臂,後創雖愈,每至陰雨,骨常疼痛,醫曰:「矢鏃有毒,毒入於骨,當破臂作創,刮骨去毒,然後此患乃除耳。」羽便伸臂令醫劈之。

かつて関羽は、流れ矢に左ヒジを貫通された。

「嘗」がクセモノで、いつだか分からん。物語では、関羽の最終戦の中で起きた出来事だとしているが、作家なら当然の操作です。

外傷が治っても、ジメジメした日には、いつも骨がズキズキ痛んだ。医者が関羽に言った。
「矢ジリには毒が塗られており、骨に毒が回ったようです。患部を切開して、骨を削り取れば、痛みが取れるでしょう」
関羽はすぐにヒジを伸ばし、医者に切らせた。

「便」は「すなわち」で、すぐにの意味。治療法を知って、その場ですぐに手術させた。
いかにも豪傑という感じだが、1分1秒でも痛いのがイヤだったという読み方もできます (笑)


時羽適請諸將飲食相對,臂血流離,盈於盤器,而羽割炙引酒,言笑自若。

このとき関羽は、たまたま諸将を集めて、飲食しながら語り合っていた。関羽のヒジから血が流れ、血受けの容器が血でいっぱいになった。しかし関羽は、焼肉を裂いて、涼しい顔で談笑した。

これをあまり指摘した三国志本を知りませんが、
外科手術の横で、動物の肉を食らっているから、グロいのです!

劉備から切り離され、独断専行

二十四年,先主為漢中王,拜羽為前將軍,假節鉞。是歲,羽率眾攻曹仁於樊。曹公遣於禁助仁。秋,大霖雨,漢水汎溢,禁所督七軍皆沒。禁降羽,羽又斬將軍龐德。梁郟、陸渾群盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏。

建安二十四(西暦219)年、劉備は漢中王となった。関羽は前将軍となり、節鉞を借り受けて独立した軍権を与えられた。 この年、関羽は軍を率いて、樊城で曹仁を攻めた。

曹操への恩は、華容道での見逃しがなくても清算されてるようだ。ぼくが華容道にこだわるのは、この話がとても好きだからです。
軍権をもらった途端に北伐を始めたことから、関羽がずっと北伐したくて我慢していたことが伺えます。

曹操は、于禁を援軍に送った。
秋に大雨が降り、漢水が氾濫した。于禁が率いる7軍は、水没した。

1軍とは、12500人のこと。一般名詞のようになっているが、元々ちゃんと決まっているのです。
于禁が沈めてしまったのは、約9万人。もったいない!

于禁は、関羽に投降した。関羽は、曹操軍の龐徳を斬った。
梁郟や陸渾らの盗賊は、関羽から印號を受け取って、決裁権を関羽に保障された。盗賊たちは、関羽を支持した。関羽の威勢は、曹操が治める華北を震撼させた。

曹公議徙許都以避其銳,司馬宣王、蔣濟以為關羽得志,孫權必不原也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。曹公從之。

曹操は、臣下に相談した。
首都を許から他へ移して、関羽の脅威を避けようと思うのだが」

首都には、曹操が保護している漢皇帝がいます。漢皇帝が、関羽(つまり劉備)の手に渡ってしまうと、曹操が華北を支配する正統性が失われます。絶対に避けねばならない。
曹操が首都をもっと北に移せば、安全になる。安全には違いないが、「曹操が不利」と宣伝するようなもので、好ましくない。

司馬懿と蒋済が、曹操に反対した。
関羽の成功を、孫権が望んでいません。孫権に関羽の背後を襲わせ、孫権が江南に治めることを追認してやりなさい。関羽による樊城の包囲は、自然と解けるでしょう」
曹操は、司馬懿と蒋済の意見を採用した。

関羽に死亡フラグが立ちました。
言葉1つで、英雄・関羽を殺す包囲網が完成してしまった。

孫権と関羽は、どんな風に険悪になったか

先是,權遣使為子索羽女,羽罵辱其使,不許婚,權大怒。

これより先に、

だから、いつなんだ? こんなんばっかだな。

孫権は、関羽に使者を送った。
「私の子に、関羽将軍の娘を娶らせたい」
関羽は使者を罵って、辱めた。関羽が縁談を断ったので、孫権は大いに怒った。

司馬懿たちが見抜いた、関羽と孫権の不仲の原因の1つです。


典略曰:羽圍樊,權遣使求助之,敕使莫速進,又遣主簿先致命於羽。羽忿其淹遲,又自已得於禁等,乃罵曰:「鰂子敢爾,如使樊城拔,吾不能滅汝邪!」權聞之,知其輕己,偽手書以謝羽,許以自往。

『典略』が伝える。

関羽と孫権の関係性について、注釈があります。

関羽が樊城を包囲したとき、孫権は、
「私たちは同盟軍ですから、関羽将軍に加勢します
という使者を出発させた。
だが孫権は、その使者に、
「スピードを上げてはいけない。ゆっくり向かえ」
と注意した。

いかにも孫権らしい。関羽の攻めが、どのくらい成功するかを見定める。結果次第で、対応を変える。
のちの話だが、孫権は三国のなかで、皇帝即位がもっとも遅い。他国の様子を見て、タイミングを計っているのだ。ウマいが、セコい。

孫権は、使者を遅らせた一方で、別の事務係に関羽を訪問させた。

探りを入れるためでしょう。派遣された事務係は、ストレスが溜まるだろうに。出仕拒否とかになりそう。

関羽は、援軍が遅いから、事務係を叱り飛ばした。
このころ関羽は、于禁らを投降させて、得意になっていた。孫権の事務係を、関羽は罵った。
「姑息な奴め。もし樊城を陥落させたら、次は必ず孫権を滅ぼすぞ」

反語です。「吾不能滅汝邪」で、「どうして私が、お前を滅ぼすことができないのか、いやできる」となる。ここ、テストに出します (笑)

孫権は事務係から、関羽の言葉を聞いた。孫権は自分が、関羽に軽んじられていることを知った。孫権は、直筆の手紙で、ウソの内容を関羽に送った。
「援軍が遅れて申し訳ありません。私が自ら援軍に駆けつけますから、どうかご容赦下さい」

臣松之以為荊、吳雖外睦,而內相猜防,故權之襲羽,潛師密發。按呂蒙傳雲:「伏精兵於冓鹿之中,使白衣搖櫓,作商賈服。」以此言之,羽不求助於權,權必不語羽當往也。若許相援助,何故匿其形跡乎?

注釈者である裴松之は、考えます。

孫権が援軍を渋ったと伝える『典略』について、注釈した人がコメントしている。

関羽と孫権は、見せかけの同盟を結んでいますが、じつは相互に疑って警戒していました。ゆえに孫権は(曹操に動かされて)隠密に関羽を討つ軍を出したのです。
同じ歴史書の呂蒙の伝記に、
「関羽の本拠地を乗っ取る作戦のとき、呂蒙が兵士を船に隠し、商人に変装させた
とあるのは、隠密な作戦だった証拠です。
同盟は見せかけなので、関羽が孫権に援軍を求めるはずがなく、孫権が自ら駆けつけると言うはずもありません。
もし関羽が孫権に援軍を求めたなら、どうして孫権は、兵士を隠密に動かしたのでしょうか。矛盾してしまいます。

同盟があれば、孫権は援軍に見せかけて堂々と荊州を進み、いきなり裏切って関羽を討つことができた。隠れたってことは、孫権から関羽へ援軍を送る関係性ではなかった、ということ。


次回、関羽の死まで届きます。討つのは曹操か、孫権か。