09) 蜀が滅亡するとき、関氏は
関羽が死んでしまった。
子孫は繁栄するのでしょうか?
関羽の死に関して、もう少し
追諡羽曰壯繆侯。
関羽は死後に「壯繆侯」とおくり名された。
蜀記曰:羽初出軍圍樊,夢豬齧其足,語子平曰:「吾今年衰矣,然不得還!」
『蜀記』は伝える。
関羽が樊城を囲むために、出撃するとき、夢を見た。関羽は夢で、イノシシに足をかじられた。関羽は、子の関平に言った。
「私は近年、衰えてきたことだ。これが最期の戦さとなるだろう」
「然」は、順接にも逆接にも読めるから、イジワルな字だ。
江表傳曰:羽好左氏傳,諷誦略皆上口。
『江表傳』が伝える。
関羽は『春秋左氏伝』を好んだ。ほぼ全部を暗誦できた。
まあぼくも歴史書を読んでても、毎日の失敗は下らないが。
関羽の子孫は、皆殺し
子興嗣。興字安國,少有令問,丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中、中監軍,數歲卒。
関羽の死後、子の関興が嗣いだ。
関興は、あざなを安國という。若くして評価を受けた。蜀の丞相・諸葛亮は、関興の器量を見込んだ。
関羽は劉備の冷たさに耐え、諸葛亮は愚かさに耐えました。
関興は20歳で、侍中、中監軍となった。
だが関興は、就職して数年で死んだ。
子統嗣,尚公主,官至虎賁中郎將。卒,無子,以興庶子彝續封。蜀記曰:龐德子會,隨鍾、鄧伐蜀,蜀破,盡滅關氏家。
関興の死後、子の関統が嗣いだ。
関統は、劉禅の娘を娶った。関統は、官位が虎賁中郎將まで昇った。関統が死んだとき、子がいなかった。
関興の庶子である、関彝が封地を嗣いだ。
蜀記曰:龐德子會,隨鍾、鄧伐蜀,蜀破,盡滅關氏家。
『蜀記』が、関氏の後日談を伝える。
樊城で関羽に斬られた龐德には、龐會という子がいた。龐會は、鍾会と鄧艾に従って、蜀を討伐した。蜀が滅亡すると、龐會は、関羽の一族を全滅させた。
おわりに
今回の狙いは3つでした。再確認します。
①物語で関羽ファンになった人に、歴史書の面白みを伝える
②ちくま学芸文庫の翻訳で満足せず、原典に回帰する
③重層的な注釈の魅力を味わう(できれば読み手にも伝える)
①について。
関羽は、劉備に煙たがられた。だが関羽は愚直に、「劉備に尽くす」という自分で勝手に設定した誓いに殉じました。この誓いの貫徹には、劉備の存在すら不要かと思えるほど (笑)
曹操の引きとめを振り切ったあたりから、関羽が自分の境遇に不満を持つエピソードがこぼれ始めた。
「せっかく曹操の厚遇を断ってまで、劉備に参じたのに」
という恨み言だ。
例えます。
自分で好んで、しょーもない異性と付き合ったくせに、
「あなたのせいで、私の青春は台無しになった。人生を返して」
と嘆く若者の心境と同じだ。関羽は、好んで劉備に尽くしたくせに、境遇を恨んだ。最期は、後先考えずに北伐して、自滅した。謀殺されたと言うより、自暴自棄な自爆です。
神がかった英雄というより、生身の感情を持った俗人です。
②について。
セリフを中心に、
「ちくま学芸文庫はこう訳してるけど、原文を見ると違う」
という部分がありました。これが成果です。
訳文だけ読んでいたら、永遠に気づかなかった。ぼくの解釈が間違っていることの方が多かろうが、、原典に当たるのは楽しい。
③について。
注釈者の裴松之は、情報を補うだけじゃなかった。彼自身が引用&注釈した内容について、その信憑性をウダウダと検討してた。
そのウダウダに対して、ぼくもウダウダ言う。
注釈は、侮れない。やり方によっては本文の意味を正反対にすら変えてしまう。注釈を付けるという作業は、ぼくたち「読書をする人」にとって、極上のエンターテイメントです。
いちおう3つの狙いを達成したということにして、「関羽伝」の翻訳と注釈づけを終わります。100104