01) 諸葛亮、夏侯淵、董卓
いつも小難しい本に走りがちですが、今回はライトに。
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
と副題にあるように、
絵がメインの本です。
「その人物の死に際がどう描かれているか」
に関心を起きながら引用し、新しい発見があるたびに書き留めます。死に様だけじゃなく、人物評も頻繁に語られている本なので、そこにも突っ込みを入れます。
スペースの都合で、右のメニューの人名は抜粋です。メニューに名前がない人の話も、本から全て載せています。
内臓の忘れ物、諸葛亮
カタツムリの帽子に、白い羽扇、神経質そうな美男子。
だから基本的に、諏訪原氏の絵に逆らうことは出来ません (笑)
解説文には、司馬懿のセリフとして、
「軍人は、機密や軍糧をもっとも大切にする。人間で言えば内臓にあたる。諸葛亮は、これらを捨てて撤退した。内臓を棄てて、人間が生きておれるか」
と、諸葛亮の死を確信した話が載っている。出典どこ?
完璧主義者、孫堅
黄祖を追撃したとき、深い茂みから射られた。
孫堅は猪突猛進の人。単独行動を好み、常に完全なる勝利を求めた。勝利を目前にすると、無我夢中になる悪い癖があった。
黄巾討伐、華雄撃破のときも、部下の護衛があったから、死なずに済んだ。いつ死んでもおかしくなかった。
卒に将たる器もなし、呂布
主君を裏切った人間は、誰にも相手にされない。呂布は武将としては抜群に強いが、軍を率いると連戦連敗。「将に将たる器」どころか、「卒に将たる器」でさえなかった。
呂布は君主タイプではなく、せっかく部将として有能なのに、誰も主君に頂けなかったことが不幸だったな。就職できなかった理由は、本が責めるとおり、丁原と董卓を斬ったせいだが。
忠義は後世の創作、関羽
かつて曹操は関羽にほれ込んだ。曹操は、関羽の強さ、冷静さ、窮地に追い込まれたときの暴れっぷりを畏怖していた。
関羽は何より忠義を重んじた人とされるが、「もちろん」多くは後世の脚色によるものだ。
漢中を目指した美貌、周瑜
周瑜は曹操に対抗するため、荊州と益州を足がかりに漢中を手に入れるという「天下二分の計」を構想していた。
っていうか最期の出陣は、目的地がどこだったっけ?
諸葛亮に出し抜かれて連敗し、病死した。正史では、おおらかで度量が大きな人物である。
死因はドジではない、夏侯淵
夏侯淵は、短慮のために死んだのではない。度胸のよさが災いした。
劉備は、張郃が守る東柵を攻撃した。魏軍は本来は撤退すべきだったが、夏侯淵は徹底抗戦を選んだ。東柵に兵の半数を回したから、夏侯淵のいる南柵が手薄になって死んだ。
とぼくは思っていたのだが、違うのかも。物理的に直しに行ったのではなく、味方を救いに行ったのだとしたら、立派な死に方だ。曹操の「臆病さも必要だ」を無視しただけの最期ではなくなる。
「愍公」と贈り名された。
別の話だが、蜀漢では、献帝の健在が確認された後も、この号を国内で用いたんだろうなあ。気まずく、そして恥ずかしいことだ (笑)
権力欲を満たし終えた、曹操
曹操は「周の文王でありたい」と言った。周の文王は実質的な初代だ。文王は天下の3分の1を治めながら、殷の臣下として死んだ。
曹操は、すでにナンバーワンであり、権力欲を充分に満たされたから、皇帝を名乗らなかった。
死を覚悟した呉攻め、劉備
呉の出兵の目的3つあった。荊州奪還、中原制覇、関羽の敵討ち。
もともと死を覚悟した出陣だったが、案の定敗れた。
『太陽の黙示録』董卓
騎都尉の李粛は、呂布の命令で、手兵を衛兵に化けさせた。ニセ衛兵たちは、呂布ととも董卓に切りかかった。
董卓の死体に走りよった主簿の田景も殺害された。
かわぐちかいじ『太陽の黙示録』の董藤首相のモデル。三国志を日本の近未来に移植した異色の物語だ。
トートー首相と読むの? 便器のメーカーかよ。