10) 何進、袁術、王允
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
後漢の7人です。
もともとブタ殺しではないか、何進
張譲は、何太后に訴えた。
「大将軍の何進は、諸国から兵を集め、私たち宦官を殺そうとしています。もし私が謝りに行っても、身体をバラバラにされてしまうでしょう。太后さまが何進を止めてくれなければ、私はここで自害します」
何太后は張譲にだまされて、何進を呼び寄せた。主簿の陳琳が何進を止めた。だが何進は気にとめずに、行ってしまった。
護衛の袁紹と曹操は、長楽宮に入ることを許されなかった。何進は1人で入り、張譲たちに殺された。
最近は両晋ばかりに気を取られていて、何進のことをすっかり忘れていた。
袁紹に一掃された、十常侍
『後漢書』の「宦者伝」には、12人の名前がある。『演義』では10人である。とにかく中心は、張譲と段珪の2人である。
宦官と言えば、蜀を滅ぼした黄皓。陳寿は黄皓に諂わなかったので、何度も左遷された。陳寿の反骨精神が伺える話だ。
駄々っ子のような死に様、袁術
袁術は、司空の袁逢の子。身内に親切な親分肌。
だが自分の欲望を制御できず、長期的な展望・戦略に欠けた。董卓から後将軍に任じられた。袁術は、董卓から逃げた。孫堅が南陽太守を殺したおかげで、袁術は南陽郡の支配者におさまった。
呂布と曹操に敗れた袁術は、袁紹に手紙を送った。これが名文だから、袁術は文人になったほうが良かったかもしれない。
「袁氏が天命を受けたことは、瑞兆が示している。いくら曹操が漢室を助け起こしても、天命が絶えたものを継続することはできない。どうして、すでに滅亡したものを救うことができるか」
皮肉っ気なしに、ぼくは袁術に賛同いたします。
袁術は、青州の袁譚を頼った。だが途中でハチミツが手に入らず、癇癪を起こして死んだ。駄々っ子のような死に様だった。
鮮卑に刻んだ黒記憶、公孫瓉
数十騎を率いて、数百騎の鮮卑に飛び込んだ。公孫瓉を恐れて、鮮卑は二度と国境を越えてくることがなかった。
公孫瓉の名は、彼の死以降はさっぱり史書には出てこないのだが、きっと何人かの胡族は、公孫瓉が憎くて南下したはずだ。
袁紹軍に穴を掘られて、妻子を絞殺して自害した。
公孫瓉の晩年は、他人の善行より過失に目を向けた。だから部下からの人望はすっかり失われていた。
背中のできもの、劉表
霊帝の死後に荊州刺史となった。袁術と孫堅を退け、零陵郡と桂陽郡を傘下に入れた。巨大勢力を築いた。
208年に曹操が南下したとき、背中にできた「悪性のできもの」のために急死した。
ググッたら「脂肪腫」が出てきた。判断がつかない。
「背中の傷」が後ろめたく逃走した証拠だと言われるように、ただの比喩なのかも知れないなあ。分からんが。
理由なく董卓を斬った、王允
董卓の残党は、賈詡から、
「もし軍を棄てて逃げたら、宿場の村長にすらバカにされるでしょう。いちど長安を攻め、長安で敗れてから逃げても遅くありません」
と励まされた。長安を攻めた。
その気になってしまう、李傕と郭氾は、もしかしたら単細胞か。
長安を守るのは、王允と呂布だ。呂布軍は、呂布の短気を恐れて、敵に降参する人が多くなった。呂布は王允に逃亡するように説得したが、王允は残った。
李傕は、
「理由なく董卓さまを斬った王允を、殺しに来たんだ」
と献帝に訴え、敵討ちを成功させた。王允は、すでに董卓を倒したので、大願を成就して潔く死んだように見える。
ある種の諦観、献帝
献帝が曹丕より長生きしたのは皮肉である。 山陽公時代は、栄枯盛衰、諸行無常を感じていたはずだ。いかにも日本風の解釈だが、ある種の諦観を持って、後漢末を振り返ったはずだ。
5年くらい前に読んだ韓国だかの作家の三国志では、献帝はせっせと農作業をやってました。さすがにそれはないな (笑)
これで別冊宝島は終わりです。
タイトルになっている「散り様」を描ききっているというよりは、コンパクトな人物紹介という感じの本でしたが、楽しめました。テンポよく略伝が読めたので。
諏訪原氏の絵は、全部カラーで見たかった。定価が上がっても、カラーなら買ったのに。血飛沫を浴びる魏延とかね。じつは、たかだか1000円の本なのに、図書館で借りてこれを書きました。酒を飲んで笑顔の張飛が、いちばん印象的でした。091204