09) 李厳、黄忠、姜維
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
蜀の14人のうち、あと5人です。
保身と蓄財した人、李厳
李厳は、緜竹で劉備に敗れて臣従した。218年、わずか5千人で数万人の盗賊を鎮圧した。李厳の有能さを示すエピソードである。
劉備が死んだ。李厳は諸葛亮と対照的に、蓄財と保身に走った。
李厳は諸葛亮に、あなたが皇帝になれと勧めた。諸葛亮に対し、オレを昇進させろと要求した。李厳は兵糧輸送に失敗したので、劉禅が撤退命令を出したと偽った。責任回避を咎められ、梓潼郡に流された。
劉備の舌に殺された、黄忠
黄忠の年齢は分からない。
率先垂範して、猪突猛進するタイプの武将である。正史では、220年に死んだ。
黄忠の荊州時代は誰も分からないから、実は見た目ほど高年齢ではなかった可能性もある。少なくとも史料と矛盾しない。そんな妄想でストーリを作ってみたいかも (笑)
中国人が本当に使うのか分からないが、老いても元気な人を「老黄忠」と言うんだよね。黄忠にすでに「老」というニュアンスがあるなら、「馬から落馬して、違和感を感じる」だよなあ。
『演義』では222年に夷陵に参戦した。劉備が、
「昔から私に従った将も、今では老いた」
と言った。黄忠は自分への当てつけだと勘違いし、阿修羅のように突っ込んだ。馬忠の矢に当たって死んだ。
どこまでも実直な男、法正
法正は、一飯の恩でも必ず報い、ささいな怨みでも必ず報いた。
夏侯淵の敗北を知った曹操は、
「なるほど、法正が献策したせいか。劉備にそこまではやれない。誰かの入れ知恵だと思っていた」
とつぶやいた。
法正は多く策を弄したが、主君に対してはどこまでも実直だった。
このあたり、著者のガードの甘さが残念なところ。
文武両道、王朝復興の望み、姜維
姜維は『演義』で武将としてクローズアップされるが、実際は文武両道だった。諸葛亮は、蒋琬に宛てた手紙の中で、
「姜維は軍事に精通し、兵士の気持ちを理解している。この男は、漢室に心を寄せており、才能は常人に倍するものがある」
と言っているのが証拠だ。
諸葛亮は劉備から、「キミの才能は曹丕に10倍する」と言われたが、他人に対しては辛いな。たかが2倍なんだもん。
姜維は、いくら蜀が国力回復に努めても、魏には敵わないと思った。決戦を挑んで勝利すべきだと思っていた。費禕の死後は、姜維を抑える人がいなくなり、戦争をくり返した。
内政は足し算だが、戦争は掛け算どころか、指数関数である。逆転には戦争しかない。でも戦争には博打の要素が強いから、勝てば大勝ち、負ければ大負け。リスクが高すぎる。
成都が落ちた。最後まで戦い続けた姜維は、諸葛亮と劉備の魂が乗り移っていたのだろうか。
凡人皇帝、劉禅
264年、劉禅は真っ先に投降した。先人が苦労して成し遂げた三国鼎立の一角を、自らの手で崩壊させた。
劉禅は安楽公となった。領地1万戸、絹1万匹、奴婢100人、安逸な一生。7年後に、洛陽で世を去った。
蜀漢は終わり。あとは後漢の7人です。いや、十常侍がひとまとめだから、正確には16人かなあ。