02) 郭嘉、孟達、陸遜
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
にツッコミつつ、
新しい知見を得たいなあという試みです。
旧袁術軍を合併して一人前、孫策
曹操に敗れて袁術が死んだ。旧袁術軍は、劉勲に身を寄せた。
曹操と孫策は、旧袁術軍の取り合いをした。孫策は劉勲に計略をしかけて、居城をカラにさせた。孫策が、旧袁術軍を獲得した。
ぼくに漏れていた視点でした。孫呉軍の基盤は、孫堅の遺産よりも、袁術の遺産に拠るところが大きかっただろう。時期や場所から見て、そうだ。また袁術の子が、孫権に仕え続けていることからも言える。
いちばん若かった、郭嘉
機略縦横の郭嘉は、柳城から帰ると危篤した。
「いちばん若かった郭嘉が死んだ。これも運命か」
と曹操は嘆いた。郭嘉は38歳だった。
それなら、38歳は決して若手ではない。それなのに曹操のこのセリフが出てきたのはなぜか。曹操軍は、けっこう年増なのです。トップの曹操が、黄巾デビュー戦ですでに30歳だったからね。
孫策は26歳で死んだというのに。っていうか、ぼく自身が数えで孫策の年齢を越えており、やや焦る (笑)
次代の五虎大将、孟達
劉備の将として孟達は、実績を残した。次代の五虎大将を狙える器量だと、衆目が一致していた。
司馬懿に包囲された孟達は、16日間の抵抗をした。孟達の首級は、洛陽の四辻で焼かれた。
寝返り武将というジャンルの人物の、哀れな末路だった。
劉備に五虎大将を期待させ、曹丕にも実力で評価されたというのが、この本でも孟達の評価ですね。「寝返り武将」とレッテルを強調するくせに、密かにベタ褒めじゃないか。
客観的に見ると…袁紹
客観的に見ると、袁紹にも天下を取るチャンスはあった。支配地、出身、情勢は、曹操や劉備とは比べ物にならないほど、優位なはずであった。
ここでは袁紹が、部下を使いこなせなかったことを強調するために、袁紹の有利さを強調するのが狙いを持って、客観的と言ったようです。
官渡敗戦のショックから発病。2年の憂鬱を味わって惨めに死んだ。
脳死患者からの臓器移植論争、典韋
典韋は深い傷を負った。大声で敵を罵倒しながら死んだ。典韋が死んでしばらくは、敵は懼れて近寄れなかった。死んだことが明白になってから、ようやく首級を切り落とした。
曹操は、典韋の死体を敵方から盗ませ、厳粛に葬儀した。
典韋を殺した張繍は、烏桓攻めの途上で死んだらしい。
俗人の心を知らない聖人、陸遜
234年、諸葛亮の北伐と合わせて、孫権は自ら合肥を攻めた。
別働隊として、陸遜と諸葛瑾は、襄陽を攻撃した。呉軍の手の内がすっかり魏軍に漏れたので、退路がなくなった。陸遜と諸葛瑾は、退却策を練った。陸遜が襄陽城に総攻撃をかけ、その隙に諸葛瑾が退路を確保した。
皇太子の孫和と、魯王の孫覇の後継争いが起きた。豪族や文武官の子弟は、どちらの派に入るかで人生が左右されるから、必死になった。
陸遜は風潮に諭した。
「有能な者は、どちらが皇帝になろうが、常に登用されるはずだ。派閥争いを辞めよ」
陸遜の諭しは、効かないよ。何も解決しないよ。
皇太子の孫和を廃せという論調が強まると、陸遜はそれに反対した。だが孫権は、陸遜が皇太子派であるという根も葉もないウワサを信じて、陸遜を詰責した。
筆者が、陸遜の清廉と有能を強調したのに、裏目だ。
陸遜が大切にされた理由は、孫策が陸氏と敵対したことの罪滅ぼしだ。屈折したナナヒカリだが、本人を勘違いさせるには充分な厚遇でした。
潔白な陸遜は病死した。
以上の15人が、全60人から「厳選」された散り様の面白い人だったらしい。まあ三国ファンとしては、以降の45人もお馴染みだから、楽しさは続くでしょう。以下、国の順です。