03) 曹休、夏侯惇、荀攸
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
魏の14人です。
地図マニア、曹芳
8歳で即位し、司馬懿と曹爽が輔政した。従順だった。
成長してからも仕事がないので、郡国県道の設置・廃止ばかりやった。陳寿は、いちいち記録するのは不可能だと切り捨てた。曹芳の暇つぶしの成果は、正史で省略された。
254年、中書令の李豊と、皇后父の張シュウが、司馬師を更迭して夏侯玄を大将軍にしようとした。司馬師は曹芳も共犯だと決めつけ、23歳の曹芳を廃位した。
斉王とされ、魏晋革命後は劭陵県公となった。43歳で死んだ。
罰されない苦痛、曹休
218年の漢中攻防戦では、
「もし張飛が本当に糧道を断とうと考えているなら、気づかれないように軍兵を動かすはず」
と見抜いて、魏軍を勝利させた。
226年に曹休は、周魴に騙されて石亭で敗れた。
明帝が曹休の責任を問わなかったので、曹休はかえって背中に悪性のデキモノを作った。
全否定は出来ないが、ぼくは違うと思う。(下につづく)
明帝は慰問の使者を送ったが、曹休は病死した。
于禁といい曹仁といい、歴戦の名将が、ただ一度の敗戦でたちまち気落ちして死ぬのが、魏の国柄です。蜀は馬謖ほどの軍令違反でもしない限り、殺されない。いちいち魏将ほど落ち込まない。
魏は、有能な人材が多いだけに、ポスト争いが烈しい。生きづらい組織だ。
また魏は強国だから、勝って当たり前という期待がある。国力総体で見たらそうかも知れないが、イレギュラーが頻発する合戦場に立つ司令官としては、イヤなプレッシャーだ。
陰謀のお仕着せ、曹爽
243年、卑弥呼の使者を迎えたのは、曹爽だ。司馬懿を太傅に祭り上げて、得意の絶頂にあった時期だ。
司馬懿のクーデターのとき、曹爽は戦うべきときに戦えなかった。これでは腰抜けと言われても仕方がない。
ちなみに陳寿は晋代に『三国志』を書いたので、司馬懿の叛乱を「曹爽の陰謀」と書いている。
殉死したかも、夏侯惇
影が体に沿うように、夏侯惇は曹操に仕えた。夏侯惇は「曹操の分身」だった。曹操は、夏侯惇だけは魏の臣下として役職を与えなかった。特別待遇に対し、夏侯惇は猛抗議した。前将軍となった。
曹操が死んで数ヶ月で、衰弱死した。曹操がいなくなれば、夏侯惇自身の人生に意味はなかった。
『演義』にて関羽の死後にエサを食べなくなった赤兎馬と同じように、夏侯惇が曹操の後を追ったと言いたいようです。日本史でたびたびお目にかかる「殉死」を三国の人はしませんねえ。陳寿の脳内にその概念がないから、夏侯惇は「病死」と書かれた。著者は直接は言っていないが、指摘内容はこれか。
魏公くらい許しちゃえ、荀彧
董昭は曹操を「国公」に推した。荀彧は反対した。
曹操が皇帝になろうと言うのではないから、荀彧は「国公」程度は認めてよかったのではないか。
荀彧が死んだ翌213年、曹操はちゃっかり「魏公」になった。
危険を避ける能力、荀攸
陳寿は荀攸について「危険を避ける能力があった」とコメントした。これは甥の荀彧と対比した言葉だ。
荀彧は曹操の不興を買って死んだ。荀彧は、自分の才能を鼻にかける態度があったかも知れない。
荀彧ほどの功績があったら、他人の50倍くらい低頭しても、まだ足りない。鼻に付くと言う人が出てくるだろう。功のある人って大変だなあ。
荀攸は荀彧と違い、隠忍自重した。作戦を誰にも喋らなかった。荀攸は鍾繇にだけ、12の実戦プランを語った。だが鍾繇がまとめる前に死んだから、今では荀攸のプランを誰も知らない。
しかしなぜ荀攸は秘密主義者だったんだろう? ただの処世術としては、あまりにストレスが大きかろうに。
分からない降服の理由、于禁
裏切りが横行する時代に、于禁は命を賭して役割を果たすから、曹操に気に入られた。
官渡で矢の雨を受けた曹操軍は、パニックなった。于禁は戦意をまとめなおした。于禁は常勝将軍と言ってよい。
曹丕は、捕虜から帰ってきた于禁を慰め、荀林父と孟明視の故事を引いて、安遠将軍とした。だが曹丕は、于禁に自死してほしかった。高陵に参拝させた。