05) 孫亮、諸葛恪、太史慈
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
魏の14人が終わり、呉の10人が始まります。
英雄の要素を詰め込んだ?孫権
曹操に並ぶ人心掌握術、劉備に勝るとも劣らない折衝能力があり、孫権は英雄の要素を詰め込んだ皇帝だ。
別冊宝島は、国ごとに著者が違うようだ。呉担当の新田哲嗣氏は、よほど呉好きが有名だから、書き手に選ばれたのでしょう。
老いて孫権は、自らの手で崩壊へのカンヌキを外すような行動が多くなった。孫権は呂壱の世辞に躍らされる傀儡となった。顧雍と諸葛瑾の説得によって、わが道を得たが、孫権への信頼は地に堕ちた。
二宮の変が終わり、孫権は病死した。
どの執政官も専横政治、孫亮
10歳で孫亮は即位した。諸葛恪を、253年に孫峻が退けた。254年に孫登の遺児・孫英が、孫峻を暗殺しようとした。孫英は、孫峻から返り討ちに遭った。
知らなかったが、面白い事件ですねえ。即位せずに死んだ孫登の分まで、ファンの期待を背負ってほしい。
孫峻の次の孫綝は、孫亮を廃位した。孫亮は会稽王になった。3代皇帝の孫休は、孫綝を倒した。孫亮の復位が噂されると、孫休は孫亮を候官侯に格下げした。18歳の孫亮は、失意で死んだ。
諏訪原氏の描いた孫亮は、可愛くて切なくて、好きです。
暗殺説が数多い、孫皓
諏訪原氏の孫皓が痩せている!太っているイメージがあったのに。
絵の話はさておき、孫皓は孫和の子。孫権の孫のなかで最も賢いから、重臣が皇帝に選んだ。
孫皓は外敵の脅威に怯えて、自らの地位を脅かす権威が出てくるのを許さなかった。猜疑心と恐怖心の政治をしたのは、そのためである。
恐怖心は、内向きと外向きの区別が付くもんじゃないからねえ。
帰命侯となったが、司馬炎に反意を持っていたので、司馬氏たちの怒りを買っていた。暗殺説も数多く残る。
最初のライバルは孫弘、諸葛恪
孫権は諸葛恪に託した。
「孫弘、孫峻を束ねて、後事に当たれ」
だが諸葛恪と孫弘は、不仲だった。孫弘は孫権の死を隠して、諸葛恪を追い出そうとした。事前に露見し、逆に諸葛恪が孫覇を追い出した。結果的に諸葛恪が独り勝ちしたのだから、孫弘ではなく諸葛恪の陰謀だったのかも知れない。
孫弘は会稽郡の人だ。呉郡の孫権の家とは別系統のようです。孫弘は孫覇を支持し、諸葛恪は孫和を支持したから、仲が悪かったそうで。
司馬懿と王淩といい、諸葛恪と孫弘といい、端緒が史料に残らない陰謀は、真相が常に分からない。勝った方をいちおう疑っておく。これが今回の別冊宝島の態度なのかなあ。
諸葛恪は関税を緩和するなど、友好的な経済政策を実施した。諸葛恪のおかげで、国力を回復できた。孫峻に殺された。
稀代の大豪傑による心労、呂蒙
呂蒙は死の間際、下賜された金銀財宝を、死後に全て返還せよと言い残した。孫権は呂蒙の人物を惜しんで、いっそう嘆いた。
もともと兵卒上がりだから、家を保つことに関心がないのでしょう。君主としては、とても使いやすいタイプだ。孫権が名医や道家を集めて、呂蒙を救おうとした理由がよく分かる。
どうでもいいが、諏訪原氏の呂蒙は頭にいっぱいヒヨコが付いている。
死去を3年先送り、太史慈
正史で太史慈は、南方を統治して206年に死んだ。
だが『演義』では、赤壁で曹操を追撃した。209年の合肥で、張遼に城内へ誘い込まれ、幾千の矢を受けて重傷した。
考察するのは中国文学の領域だが、そのうち考えてみたい。