04) 賈詡、司馬懿、倉慈
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
魏の14人のうち、あと7人です。
曹丕さんに天下統一はムリです、賈詡
漢陽の閻忠だけは、賈詡の才能を見抜いた。
「賈詡の才能は、張良や陳平に匹敵する」
賈詡は栄達した後、疑惑を持たれることを恐れた。門を閉ざし、華美な暮らしをなかった。プライベートな交際をせず、子の結婚相手に名門の子弟を選ばなかった。
曹丕が、蜀と呉のどちらを先に片付けるべきか、賈詡に相談した。
賈詡は応えた。
「呉蜀はどちらも小国です。劉備と諸葛亮は優れ、孫権は真偽を見抜く力を持ち、陸遜が変化を把握しています。いまの魏臣には、劉備や孫権に勝る人がいません。文を先にし、武を後にしなさい」
劉備や孫権に治めさせておいた方が、まだ天下にとってマシだと言ってるのかも。のちの鍾会の登場を見抜いていたか。
李傕と郭氾を長安に呼び込んだことに、反省をしているんだな、きっと (笑)
曹丕は賈詡を無視して、江陵の戦役を起こした。魏に大損害が出た。賈詡は直後に77歳で死んだ。
転勤願望、鍾会
264年正月15日、鍾会は成都で護軍・郡守・牙門騎督以上を集めて、郭太后の喪を発表した。太后の遺詔を捏造した。
「司馬昭を廃せ」
司馬昭の配下にいる劭悌は、鍾会の蜀攻めの前に「鍾会は危険だ」と進言した。鍾会の野心は、周囲に明々白々だった。
本当かなあ?
それよりも、魏国内の政治的立場に不満があって、それを蜀に持ち込んだだけじゃないのかなあ。司馬師と司馬昭のために手柄を立て、立場が重くほどに居づらくなる。曹休や于禁の項で書いたことと同じだ。
話は脱線するが、そんな魏室にいて司馬氏は勝ち残った。紛れもなくすごい。宮廷闘争家として、天下を取る資格はあるなあ。
緜竹で鍾会の部下に捕まる、鄧艾
241年に鄧艾の発案で、司馬懿は運河を開通させた。水害がなくなり、食料が増産された。
鄧艾は蜀攻めの前に、山上に座って流水を見る夢をみた。
「山上に水があるのは、易で『蹇』です。西南には有利ですが、東北には不利。出かければ蜀に勝つでしょうが、帰ってこれないでしょう」
諸葛瞻の抵抗が烈しく、部下が弱音を吐いた。鄧艾は、
「国の存亡を決めるのは、この一戦だ。敵も必死だ。こちらも死に物狂いで戦わねばならない」
と言い、それでも弱気の部下2人の首を刎ねようとした。諸葛瞻の首を取った。劉禅を降服させた。
簒奪する気たっぷり、司馬懿
曹操の生前から、司馬氏を皇帝に就ける野心があった。気が長くて、したたかな人物だ。
曹爽を謀殺したとき、司馬懿は皇位に就くことができたが自重した。曹芳から丞相に任じられたが辞退した。九錫も辞退した。実質のナンバーワンなので、形式を整えても仕方がなかった。
禅譲を受ける意志がなかったか、受けたくても受けられなかった、と読むのが自然だろう。
251年5月に司馬懿の「最後の戦い」が始まった。王淩が曹彪を擁立した。王淩の件も司馬懿の謀略だった可能性がある。なぜなら、司馬懿本人が指揮を取ったからだ。
ぼくは司馬懿には簒奪の心はないと思ってます。別冊宝島に宗旨変えはさせられなかったな (笑)
「敦煌の守り人」倉慈
たった1人の真剣なリーダーがいれば、地域・社会を変革することができる。これを教えるのが倉慈の生涯である。
太和年間(227-233年)に敦煌太守として赴任した。20年間の太守不在により、豪族が私財を蓄え、庶民には立錐の地もなし。租税体系を整え、罪刑を検討し、交易する人は洛陽への通行証を発行した。在職で病死した。
異民族の中には、顔面に傷をつけて倉慈に「血誠」を明らかにする人がいた。祠に祭られた。
人間ではない、華佗
華佗について目新しいエピソードは紹介されていないのだが、
「釈尊在世のキ婆の再来と言われた名医」
と欄外に注釈されている方が気になる。何だそれは。後漢末は、そんなに仏教が浸透しておらず、フトを語っても教義の詳細は理解されていなかったはずなんだが。
「年齢は100歳を越えていると噂されたが、見た目は若々しかった」
のだそうで。黄老か。
ぼんやりとして愛嬌がある、許褚
許褚には、許定という兄がいた。
そしてこれ以外の情報は、ぼくとっては既知のこと。筋肉系は、人物評が枝分かれしにくいからね、いまいちぼくは好きではありません。
曹操が死んだら、吐血した。