07) 劉封、馬超、馬謖
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
蜀は豪華な14人です。
劉備に自害を惜しまれた、劉封
孟達と劉封は折り合いが悪かった。曹丕は、孟達に劉封討伐を命じた。孟達は一応礼儀として劉封に、魏への投降を勧めた。
劉封は投降を拒否し、成都に帰った。劉封は、関羽を救援しなかった理由を正直に打ち明けた。劉備は劉封の言い分を冷静に受け入れられなかった。義子より義弟が大切だった。
のちに劉備は劉封が魏への投降を拒んだ事実を知り、劉封を自害させたことを後悔した。
段取りが悪いから死んだ、張飛
張飛は愛すべき野人である。だが目下に冷たかった。出陣までに白装束を用意せよといい、期限延長を申し出た部下をムチで打った。部下は張飛の首を取った。
だって関羽が死んでから夷陵出陣まで、1年以上ある。それなのに、出陣の直前になって、3日以内に白装束の調達を命じるなんて。もっと早く言えよ。そしたら部下も、張飛の人徳とは関係なく、納期を守れただろうに。
フィクションの美徳だけ、趙雲
趙雲は、一時の情に左右されず、自分より組織を重視する冷静さを持つ。趙雲が死んだとき、諸葛亮は嘆いた。
「国家にとっては、棟木が1本落ちたようなもの。私にとっては、腕を1本とられたのに等しい」
別冊宝島は、裴注の『趙雲別伝』から趙雲の美徳を並べるばかり。面白くなかったんだが、諸葛亮のセリフに突っ込めたのは思わぬ副産物でした。
腹に固いものがあります、馬超
馬超は蜀漢で、驃騎将軍になった。
劉備が帝位につくと、馬岱とともに魏延を助けて漢中を守った。夷陵の戦いの後、白帝城を訪ねて劉備に切り出した。
『演義』準拠であったとしても、驚きだ。
「私を涼州に行かせて下さい。腹に固いものがあります。食べ物がまずい。関羽や張飛のように、戦さで死ねないのが残念です。私の一門は200余人を曹操に殺されて、絶滅しました。1人だけ残った馬岱をよろしくお願いします」
蜀漢は、馬超や黄忠などの新参者に高い位を与えて、四将軍の頭数を充実させた。しかし子孫に栄爵を継がせられない、独り者の武人を選んでいることがアザトイねえ。関羽は個人的なプライドで、馬超や黄忠に高い位を与えたことに腹を立てていたが、洞察の浅いことよ。
正史で馬超は、漢中をわずかに西へ行ったベン陽で死んだ。涼州で戦えなかった。『演義』では、諸葛亮の南征が終わった226年に死んだ。
正史より『演義』が早死に、龐統
龐統は正史で、赤壁に参加していない。連環の計は小説である。
劉備が益州に入ったとき、龐統は劉璋を殺せといった。劉備は、
「まだ民心も掴んでいないから、劉璋を殺しても益州を治めることができない。ムリである」
と反論した。
正史より『演義』の方が、1年早く龐統が死ぬ。
龐統は、『反三国志』では死なないんだっけ。
劉備は龐統の名を口にして泣いた。
浮いてしまう、魏延
人望についての評価が分かれ、同僚たちの中で存在が浮いてしまう。魏延はまさにそんな武将だ。
『演義』で魏延は、人を人とも思わぬ態度を取るから、長沙太守の韓玄に重用されなかった。韓玄が黄忠を斬ろうとしたとき、魏延は韓玄を斬りつけた。正史で韓玄は、劉備に降服しているが。
劉備の死後、魏延を正当に評価してくれる人がいなくなり、魏延は独立の気性をむき出しにした。漢中に攻めかかり、馬岱に斬られた。
諸葛亮に泣いてもらえなかった、馬謖
正史では諸葛亮は泣いていない。馬謖を斬って、兵士に詫びたと書いてあるだけだ。諸葛亮は、劉備の忠告を無視した「己の不甲斐なさ」を嘆いただけだ。
馬謖が死の直前に諸葛亮に送った手紙には、10万の将兵が涙を流したという。
「諸葛亮さんは私を身内のように可愛がってくれました。だから当然、私の家族の面倒を見てくれますよね」
みたいな語調だったと記憶してます。訳文に依るのか?