06) 張昭、張紘、甘寧
「諏訪原寛幸が描く、英雄・豪傑の最期の瞬間」
呉の6人が終わり、あと4人です。
暇つぶしで古典に注釈、張昭
張昭は暇を使って『論語注』『春秋左氏伝解』といった名著を残した。
どうして張昭のこの仕事が「暇を使って」なものか。そして「名著」なんて書いているが、きっと別冊宝島の著者は読んでいないだろ。ぼくも張昭の本を読んでいないし、それ以前に現存するかすら知らんから、とやかく言う権利はありませんが。
孫権は、厳格な張昭を疎んじて、張昭を丞相に就けなかった。孫権は孫策より、器が小さい。
張昭は81歳で死に、喪服ではなく普段着で葬られた。
諸葛亮に服喪された、魯粛
魯粛は、兵を用いずに荊州南部を取り戻した。温厚なだけではなく、剛胆さも持ち合わせていた。
217年に46歳で死ぬと、国違いの諸葛亮も服喪した。
孫呉を作ったのは実は、張紘
たびたび誘われたが仕官を断り続け、初めて孫策に仕えた。外交を中心に能力を発揮した。199年に曹操への使者となり、許昌で引き抜かれて侍御史 となった。孫策の臣だが、献帝の臣にもなった。
張紘は都で、孔融と親しく交わった。
孫策が死ぬと、曹操は経験不足の孫権を討とうとした。張紘が諌めたので、曹操が取りやめた。
曹操は張紘を使者にして、孫権を降服させようとした。張紘は曹操の伝言を無視して、孫権の長史になった。呉軍として、合肥攻めに従った。
非戦論者で、孫権が外征を言うと、張紘は反対した。武昌から建業への遷都に取り組んだ。
孫権の呉が、どういう国であるかをプランニングしたのは、張紘だったかも知れない。後漢末において、ある群雄の国のアイデンティティとは、献帝=曹操との距離の取り方で決まります。これを決めたのが張紘じゃないか。
そして都の選定も、国づくりの基礎の基礎。
曹操に荀彧がいて、劉備に諸葛亮がいたなら、孫権には張紘がいた。周瑜や魯粛では、不足だ。彼らは荊州方面の司令官ではあったが、国是を決めるほどの戦略立案の功績を感じない。
新しい都を定めた後、呉郡に向かう途中に病没した。60歳。
登場の資格なし、甘寧
巴郡の盗賊だったが、歳をとると仕官を望んだ。
甘寧が癇癪を起こすと、カンタンに人を殺した。一方で、能力のある人を用いたから、兵に慕われた。正史では、死に様が不詳である。
著者が甘寧のことを、よほど好きなんだろうね。だから企画の意図を無視して、甘寧を最後に突っ込んでしまった。
これで呉10人は終わりです。
次の蜀は14人。どうして小国の蜀が、魏と同じで、呉より多いのか。それは大衆が読むためのムックだからだね (笑)