雑感 > 物語『袁紹対袁術』の構想

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第0回 企画のとっかかり(地図とトッドから)

新しい配属先での仕事が山を越えました。遊びます!160408

ブルデューを読みながら

3月、ブルデュー『国家貴族』を翻訳で読んでました。ブルデューは、あの『ディスタンクシオン』の著者。
この世界観で「袁紹対袁術」というイフを書きたくなる。入口は、孫堅が死なないこと。去年、呉の勝つイフを考えたが自分的には微妙でした。史実で肩すかしになった二袁対決のほうが読みたい(書きたい)
曹操をつかう袁紹(劉表と同盟)、孫堅をつかう袁術(公孫瓚と同盟)、劉備をつかう陶謙が三つ巴になる。そこに長安の朝廷が絡んで話が複雑化し、呂布も流れてきて。最終的には、史実で見られなかった、袁紹と袁術の大決戦にて話が終わるという。大決戦を書く練習にもなる。

『袁紹対袁術』というタイトルは「必然性」がある。必然とは何か、と自問しても、直感としか表現できないのですが……。この時点で、企画としてはアリです。
物語の始まりは、董卓による廃立。叔父の袁隗・嫡長子の袁基は支持派。袁紹と袁術は、袁基への対抗心から廃立に反発。袁紹は母の身分、袁術は年齢により、袁基に敵わない。嫡長子の袁基が死んだ途端、抗争開始!
安国亭侯の継承者として完璧な条件を備えた袁基。袁基を万能キャラとして序盤に提示。彼の死による空白が、『袁紹対袁術』の動力。そして袁紹の子も、袁術の子(孫策も広義の「子」)も、同型の争いを繰り返して、構造主義的な宿命を示し、結末は...。未定です。160327

家族の形態として、父子の関係(権威的に支配するか、民主的で友達のように接せられるか)、兄弟の関係(遺産の相続権がひとり限定か、平等に分割できるか)で分類できるらしい。その形態に縛られ、同族内の人間関係が決まる。そういう不可避的な構造に縛られたなかの人間について考えるのが楽しい。
このページの下のほうで、「袁紹と袁術」と「袁譚と袁尚」が同型でないという話をしますが、16年3月の時点では、同型だとツイートしてました。いちおう載せてみました。


地図をつくりながら

音楽をつくるとき、2種類の方法があって「詞先(しせん)」「曲先(きょくせん)」という。
歴史シミュレーション小説は、「地図先(ちずせん)」なんてどうだろう。自分が見たい勢力図を先につくって、そこに向けて話をつくる。楽しそう!アリだな!『袁紹対袁術』の地図を想像してみよう。1360327

以前に、お菓子っ子 @sweets_street さんが仰ってたんですが、『歴史地図集』を見ながら、県名を入力していくだけで、だいぶ三国志に関する理解が深まります。「練習帳」みたいなのがあればいいのに、と思います(笑)
地図をつくる行為は、その地域を仮想的に「征服」する行為と同じです。これは、べつにぼくの創見ではなくて、むかし読んだ宮城谷氏の小説でも、趙武霊王が中山国を「みた」ことで、征服の意欲を示したことになりました。ほかの部分は、ほとんど忘れたのに、この説明だけは忘れられません。

ブラタモリでも、同じような趣旨で、為政者の地形・地図に対する理解について紹介されてます。あの番組、楽しいです。


地図をつくっていると、たとえば袁術の視点になったような気分になります。南陽郡に県名を入力していて、思いました。


南陽は、後漢ベースで37県もある大郡です。洛陽は射程圏、荊州から補給を期待でき、豫州にも行ける。ここを領有したら、天下を狙いたくなります。三国期を説明するために便宜で4区画に分けてますが、黄色の部分が南陽郡です。
袁術が飛びこんだ南陽(後漢の区画)は、のちの曹操の魏国(東部都尉・西部都尉をふくむ;周囲の郡国から県を吸収)と比べても、県の数で負けない。広いですし(面積より生産力のほうが重要ですが)。主な外敵は劉表ぐらいで、よほど「天下」に近いのです。

三国志の地図をだいたい作れたら、中平六年末、董卓のいる洛陽から脱出する直前に、袁紹・曹操・袁術が、天下の地勢について語りあうフィクションの会話をつくりたい。「もしもこれから群雄割拠の時代がくるなら、どうするか」と。河北をめざす袁紹、南陽をめざす袁術、人材収集をめざす曹操(笑)


小説の企画へ

5年前、袁術の前半生(桓帝~霊帝期)を妄想で補った原稿用紙500枚の小説を書き、学生時代からの信頼のおける友人2名に見てもらったら、2名とも「最後まで袁紹をライバルとして書いたら面白かったのに」とコメントをくれました。
史実自体が『袁紹対袁術』という図式が肩すかしで、曹操対劉備にズレていく。史実準拠で書こうとすると、どうしても制約がある。
袁術が初平四年に匡亭で曹操に敗れてから、物語的には「期待と違う」話になる。図式が崩れる1段階目(ちなみに2段階目は官渡の戦い)。 曹操が実力・幸運を発揮せず『袁紹対袁術』の既定路線で後漢末が推移したらどうなるか。こういう話をぼくは読みたい(から書きたい)

ネタとしては、2016年の正月につくった袁紹が官渡で勝利するイフ設定から、軍師の権力闘争を。2015年に作った孫堅が生き残って袁術が強くなる勢力図を。ふたつを掛け合わせ、二袁が「お約束」どおり決戦するという。

二袁の決戦ものは、袁術・袁紹ファンの「惜しい」という悔しさを解消できる話になると思います。ふたりとも、曹操のマグレで天下を逃してます。「こちらのイフのほうが『リアルだ』」と言って頂ける作品になるのではと……。

ロゴだけ作りました。こんなんで、本文を書けるのか不安になるので、ほかのものに変えるでしょう……。


エマニュエル・トッドを参考にして

ある「解説」サイトで、たまたま同じ時期に同じような話をしているようなので、読みました。袁紹と袁術は、「家督」をめぐって争い、曹操の台頭を許したそうです。……ほんとに、そうでしょうか。
日本人が三国志を理解するとき、日本の戦国時代の概念を借りて理解します。江戸時代、直近の戦国時代の物語に触れるのと同じ仕方で、『三国演義』に触れたからでしょう。史料に見えず、(両漢・魏晋を分析するための)学術用語でもない「家督」がミスリーディングです。

皇帝の後継争いは紛争のタネですが、後漢末、皇帝以外が「家督」をめぐって死闘を演じるでしょうか。後継争いをするためには、「子ひとりが独占的・排他的に継承する特権」という賭金が必要です。官職は世襲でない。兵権の世襲も争点でない。では世襲の爵位(安国亭侯)が、争点でしょうか。←反語

「賭金」「争点」とは、フランス語の訳書に出てくる日本語です。フランス語では「enjeu」で、日本語には、このような用法がないとか。訳文から入ってくる新たな語彙・新たな用法です。ちょっと「エンジュツ」っぽいですが、「アンジュ」だそうです。


視点を高めに設定しましょう。エマニュエル・トッドは、兄弟の関係(ひとりが「家督」を嗣ぐか、兄弟は平等か)により、社会を類別したそうです。

原典は未読なので、これからチェックします。

皇帝以外で、爵位のために兄弟が死闘する例をあまり知りません。「すでに兄は別の爵位があるから、父の爵位を弟が嗣ぐ」なんて柔軟な対応もありました。
トッドによると、秦の統一以降、中国で兄弟は不平等から平等になったらしいです。三国期、兄弟が並んで仕官できたから、感覚に合います。袁紹と袁術の争奪の対象があるとするなら、消去法で「安国亭侯」ですが、これが主要な対立点だとは史料を読む限り、思えません。

まちがえてはいけないのが、「兄弟と仲の悪い民族」と「兄弟の仲が悪くない民族」がいるのではありません。兄弟でひとつのものを争奪するしかない社会制度のとき、兄弟の関係は悪化します。そういう対象がないとき、兄弟の関係は、それほど悪化しません。もっとも、「兄弟の仲が良くなる」わけでもありませんが。

現代日本人だって、親の遺産があると気づいた時点で、仲が悪くなったりするそうです。経験がないので、知りませんが。

皇帝の家が、やたら兄弟で叩きあっているのが印象的なので、三国期を「兄弟が争う時代」という前提で捉えがちですが、それは、皇帝の家で世襲されるもの(皇帝の位そのもの)の配分において、兄弟で不平等だからです。ひとりが皇帝になると、ほかの兄弟は皇帝になれないという。
後漢末は、例外的なことが起きて、
州牧の地位が「世襲」の対象のようになったので、袁紹・劉表のところみたいに、兄弟で争います。べつに、袁紹・劉表が愚かだから、息子たちを争わせたのではない。「兄弟のあいだで継承が不平等な、争奪の対象」というものを、皇帝ならざる彼らは、所有してこなかった。しかし突如、そういう性質をもった争奪の対象(州牧)を、獲得してしまった。獲得するまでは良かったが、その継承のマナーまでは、経験的な蓄積があるわけではない。だから、「あんなこと」になるんです。曹操しかり。

兄弟が不平等(「家督」を争奪する日本の戦国大名)と同じという先入観をもって、兄弟が比較的平等な時代の話を読むと、話を見失う。この「まちがえかた」が面白いなあと思いました。なお皇帝の家だけは兄弟が不平等ですが、袁紹と袁術は、袁術の「帝位」を奪い合ったわけでもありません。
袁術と袁紹は、決して「家督」をめぐって争っていない。
「解説」の標榜するがゆえの「分かりやすさ」が、陥穽となっています。この、穴への落ち方が面白いです。

不適切な「解説」によって、ぼくはこの文章を書くための着想を得ました。トッドは、引用で触れたことがあるだけでした。優先順位があがりました。

既知のものに例えたり置き換えたりしたら、「分かりやすい」ですが、見誤るものがおおい。「家督」という、日本の戦国大名の物語に出てくる言葉で三国志を理解しようとすると、本質(袁紹と袁術の真の争点)を見失うという。
袁紹と袁術は、いったい何を争ったのか。それを描ける小説にしたいです。

おわりに

このサイトで、いろいろアイディア出しだけやって、ちっとも本編に着手しないじゃないか、とお思いの方がいらっしゃいましたら、本当にごめんなさい。全部、頭のなかで、やんわりと進行しながら、作品におとす時機を待っているのです。読んでいる本・史料とか、仕事の状況とかによって、左右されるのですが、とくに頂いたアイディアは、きちんと形にしていくつもりです。
いちど着手すると、2ヶ月以上、掛かりきりになるので、慎重になってしまいます。今回の『袁紹対袁術』は、長年あたためてきた、「袁術、惜しいなあ」という思いに通じるので、きっと作品にしたいです。160411

といいつつ、先に地図を仕上げるつもりです。地図でストーリーを示しながら書けば、「読者の理解が助けられる」というメリット以上に、「ぼくがおもしろい話を書ける」というメリットがあるはずです。

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第1回 孫堅 死せず

いま16年11月末です。第0回を書いて、半年以上が経ちました。先週、
柿沼陽平「漢末群雄の経済基盤と財政補填策」を読む
をやりまして、柿沼先生が、袁術に(少なくとも正史より)肯定的な評価をなさっているのを見て、企画を本格化させたくなりました。あと、一昨日が「交地」だったとツイッターで見て、またやりたくなりました。

経済基盤を求める、孫堅・袁術

孫堅が死んだのは、『三国志集解』により、191年と思われる。
荊州の名将が、袁術の爪牙となる・孫堅伝 03
この検討は、継続すべきだが、状況としては、いちばん納得がいく。
初平元年から二年にかけ、袁術は孫堅に督促され、南陽に追加徴税をしながら、董卓との苦しい戦いを続けた。ついに、実質的に孫堅が勝利して、洛陽を奪回して、漢帝の諸陵を修復した。『范書』献帝紀によると、初平二(191)年「二月」の文字より遅く、「四月」より前に、孫堅が陽人で勝つ。
董卓が長安に入ったのは、『范書』献帝紀によると、初平二年四月。

初平二年の夏以降、袁術は(州レベルの戸数をもつ)南陽郡でも戦費を支えきれず、経済基盤を安定させるために、荊州の獲得に乗り出した。孫堅を劉表との戦いに投入した、、と考えられる。
ちなみに袁術は、初平三年、まったく動きがなく、この期間に、袁紹・曹操が領土を広げる。曹操は、青州兵を得た。少し遅れて、袁術は、初平四年に北上した。この遅れが、結果的に痛手となった。董卓との戦いに意欲的だった袁術が、理由なく無策とはならないだろう。初平二年の夏以降に、劉表と戦って孫堅を失い、しばらく1年ほど、動きが取れなくなったのでは。

袁術の地理的な状況は、これの第3回で表現しており、
袁術の伝記『仲書袁術本紀第一』をまじめに書く


中平六年冬(もしくは初平元年)、荊州の北部の南陽を袁術が占めるから、劉表は、中部の襄陽に抜けた。
劉表は、南郡のひと蒯良・蒯越、襄陽のひと蔡瑁と、謀をともにして(司馬彪『戦略』)、蒯越の進言により、襄陽から江陵のタテのラインの「せまい荊州」を、当面の領国と定める。というか、蒯越・蔡瑁がおこなったのは、「あなたの参謀になるから、オレたちの故郷に拠って立ち、治安を安定させろ」という、実利的な要請か。
劉表は、董卓によって派遣された。孫堅が殺した、荊州刺史の王叡の後任。しかし、董卓に任命された地方長官は、必ずしも董卓の意向に従うとは限らない。劉表は、袁術・孫堅を倒すために赴任した――、というのは董卓の「願い」であり、劉表の動きは、別に考えねば。
とりあえず、蒯越・蔡瑁ら現地の士人と「利害関係」を一致させて、荊州の混乱を収束させることを、目指したのでしょう。劉表は、孫堅のこととか、すごく軽蔑していそうですが、そのことは、当面は関係ない。

劉表が敵視した長沙太守の蘇代は、孫堅と同じ本貫・階層の出身で、留守を委ねられたと思われる。
長沙太守だった孫堅は、北に出張っているうちに、根拠地であるはずの荊州の中南部との連絡を、劉表によって絶たれたという状況。孫堅は、かれ自身のためにも、劉表と戦わなければならない。やがて再開されるであろう、董卓との戦いを継続するためにも。
史実では初平四年、袁術が、拠点の南陽を捨てて、危なっかしく兗州の陳留に侵入する。しかし孫堅だって「越境」して討伐し、本拠地を劉表に削られるのだから、同じである。兵站の有無とか、そういう「戦いの進め方」の話ではなく、「本拠地」という考え方が乏しそう。曹操だって、兗州をろくに安定させず、徐州に突っこみ、荀彧に諌められた。
袁術の認識として、陣地取りゲームをやっているのではない。ある地域の支配権なんて、皇帝もしくは有力者が長官に任命してくれたら、自動的に手に入る

奇異なことでも、愚かな誤解でもない。平時の発想ならそうなるし、事実、反董卓の諸軍がそうだった。曹操は長官でないから、私財をなげうって苦労した。長官であることの有利さは、歴然としていた。

陣地にこだわるよりも、目の前のライバルとの抗争が優先。孫堅・袁術、そして初期の曹操に共通する動き方です。まだ、後漢の安定期の発想が抜けてない。

というわけで、孫堅は、初平二年のうちに劉表と戦い、劉表をほぼ滅亡まで追いこんだが、アクシデントによって死んだ。このように史実をとらえ、これを受けて、
ここから、イフを始めましょう。

孫堅の死にざまは、たとえば孫堅伝にひく『典略』に基づいて記し、黄祖が矢を放ったけど、帯びていた伝国璽に当たって助かるとか、ベタな展開でよい。むしろ、王莽のおばが投げて欠けたが、孫堅がこれに物理的な痕跡を増やす、というのを物語の小道具にする。
のちに、伝国璽のすり替えがあって、孫堅が受けた矢による傷が、真偽の判定の証拠になる。もしくは、読者を描写のトリックでミスリードするとか。←まったく未定。

劉表の領土は南郡のみに

史実の劉表は、蒯越らと繋がり、現地の宗賊をやっつけた。
『陳志』劉表伝にひく『戦略』に「遂使越遣人誘宗賊、至者五十五人、皆斬之。襲取其衆、或卽授部曲。唯江夏賊張虎、陳生擁衆據襄陽、表乃使越與龐季單騎往說降之、江南遂悉平」とある。
これらの制圧を、劉表は数年をかけてやったと思われる。
陳寿『三国志』劉表伝と、范曄『後漢書』劉表伝を照合する

劉表がパワーアップするのは、史実では、『後漢紀』初平三(192)年に「冬十月,荊州刺史劉表遣使貢獻,以表為荊州牧」とある。長安の情勢にも左右されようが、劉表が荊州の支配を固めるのは、2年を要した。
もしも、初平二(191)年に、孫堅に叩かれたら、宗賊を一網打尽!というわけには、いかなくなる。長沙・江夏にまで遠征するヒマはなく、襄陽と江陵のあたりで、小さくまとまらざるを得ない。郡でいえば、南郡1郡だけに閉じこめられる。
もともと、荊州の軍は、孫堅が強奪してしまった。だから劉表は、孫堅と「戦い」では負ける。単騎で赴任して、宗賊の平定にも、謀略のみを使う。「史実と異なり、劉表は主力軍を失った」みたいなことにならない。分相応に、1郡で逼塞しているだけ。むしろ、史実の劉表がラッキー過ぎた。
当然、違う手を打ってくると思われるが、それは、さておき。
南陽を本拠とする袁術は、江夏の宗賊たちに支持され、孫堅も長沙太守の蘇代との連絡を回復する。武陵・零陵・桂陽も、劉表の牽制にまわると。袁術は、袁氏の故吏を、荊州南部の太守に赴任させるかも。そういうの、好きだから。ただし、基本路線は、寛政。史実において、南陽1郡のときは財政難から、郡の人民をボロボロにしたが、やや余裕がある。ただし、潤沢とはいえない。

朱儁と袁術が連携する

『范書』朱儁伝によると、董卓が長安に入ったこと(まさに今)をトリガーに、記述がある。時系列が揃うから、扱う。
卓 後に関に入り、儁を留めて洛陽を守らしめ、而るに儁 山東の諸将と謀を通じて内応を為さんとす。既にして卓の襲ふ所と為るを懼れ、乃ち官を弃て荊州に奔る。卓 弘農の楊懿を以て河南尹と為し、洛陽を守らしむ。儁 聞き、復た兵を進めて洛に還るや、懿 走す。儁 河南の残破して資する所無きを以て、乃ち東のかた中牟に屯し、書を州郡に移し、師を請(まね)き卓を討たんとす。

史実で朱儁は、董卓の意向で洛陽にいたが、山東に通じ、荊州にはしる。このとき、荊州の北部には袁術がいる。史実でも、朱儁はいちど袁術を頼ったと思われる。董卓の任じた河南尹を追い返し、中牟に駐屯して、がんばった。
朱儁は、孫堅の挙主である。劉表をやっつけた孫堅は、つぎに朱儁と連携して、中牟のそばに駐屯するだろう。

続いて朱儁伝は、「徐州刺史の陶謙 精兵三千を遣はし、餘の州郡も稍く給する所有り。謙 乃ち儁を上して行車騎将軍とす。董卓 之を聞き、其の将の李傕・郭汜ら数萬人をして河南に屯して儁を拒がしむ。儁 逆(むか)へ撃つも、傕・汜の破る所と為る。儁 自ら敵せざるを知り、関下に留まりて敢て復た前まず」とする。
徐州刺史の陶謙が、朱儁に兵を供給する。ここで李傕・郭汜が、朱儁をやぶる。本作では、「げっ!孫堅」と、李傕・郭汜が驚き、朱儁・孫堅が勝つだろう。董卓軍が、唯一やぶれたのが、孫堅軍である。かつて在外三公の張温に、「董卓を殺せ」と提案したのも、孫堅である。
朱儁と孫堅。黄巾の乱のとき、南陽でともに戦った上司・部下の活躍が再び。
李傕・郭汜は復命して、董卓に「孫堅が生きてる」と告げる。きっと董卓は、諜報によって孫堅の死を通知されており、「思ってたのと違う」と焦る。

董卓 死せず

『袁紹対袁術』という小説なんですけど、タマツキ事故を起こして、役者を増やしましょう。孫堅が存命!と知った董卓は、警戒を強める。そして、史実よりも慎重に行動する。
具体的には、①蔡邕の意見を、史実よりも積極的にもちいる。やがて蔡邕を慕って、鄭玄が来てくれるかも知れない。「いっしょに漢を作りましょう」という具合に。それから、②関中の割拠政権という性格を徹底する。

柿沼論文で、紹介されていました。
益州牧の劉焉は事態を静観したが、董卓の指令を受けた、犍為太守の任岐・賈龍の攻撃を受け、一戦させられた。

『陳志』劉焉伝に「犍爲太守任岐及賈龍、由此反攻焉。焉、擊殺岐龍」とあり、董卓の関与は分からない。その注引『英雄記』に「劉焉起兵、不與天下討董卓、保州自守。犍爲太守任岐自稱將軍、與從事陳超舉兵擊焉、焉擊破之。董卓使司徒趙謙將兵向州、說校尉賈龍、使引兵還擊焉、焉出青羌與戰、故能破殺。岐、龍等皆蜀郡人。」と、董卓が司徒の趙謙を益州に差し向け、劉焉と戦えと、校尉の賈龍に説いた。

董卓は、益州方面から西域へ、羌族・氐族の支配を強化することを考える。うかつに関東に出て、孫堅に遭遇することを好まない。そういうわけで、呂布を益州に送っちゃうとかね。
このあたりの人選は、史実の董卓の軍閥が、どのような人的構成によって成っていたか、を前提に、詳しく描きたいが、結果的に、呂布が益州に介入することになる。呂布は、史実で建安五年に「董承から曹操を殺せと言われた劉備が、袁術の討伐に出かける」のと同じ構造で、益州に出て行く。呂布と劉備は、似た発想をしそう。
むしろ、呂布がおのれの立場を危ぶみ、王允に巻きこまれることを嫌い、志願するような形になるかも。

ともあれ、初平三年夏四月に起こるべき、呂布による董卓の暗殺は、失敗する。きっと王允は、呂布の不在にめげず、董卓を暗殺しようとするが、武力が不足して(呂布がいないから)董卓に返り討ちにされる。
史実と同じペースで、王允は死ぬ(大勢に影響がなかった)
王允は謀略が失敗して、蔡邕とモメごとを起こす。しかし董卓は、もちろん蔡邕を守り、王允を夷三族とする。天子は、ますます董卓に頭が上がらなくなる。きっと、董卓が勢力を拡大したことを理由に、史実で未遂だった「尚父」の号を使う。

こんな感じで、どんどん転がしていきたいです。孫堅が加わることで、初平四年の袁術の北伐(曹操に惨敗して、寿春に逃げるやつ)は、きっと情勢が変わるはず。161129

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第2回 孫堅が青州兵をやぶる

呂布が、董卓の暗殺に失敗する

前回、呂布が「蜀にゆく」と書きましたが、呂布は、袁紹・袁術との絡みがあるので、フェードアウトしてはいけない。
きっと董卓は、董卓伝に見えるような、「口口」の旗とかを見て暗殺計画を悟り、気を抜かない。個人的な武勇によって、詔書をもった呂布をはりたおす。董卓が呂布に、短戟を投げつけたことがあった。この「父子」は、武力によって衝突してもらいたい。
史実では、王允の政権が、初平三年六月まで、約2ヶ月つづく。賈詡のコメントにより、李傕・郭汜が長安を奪いにくる。賈詡の功績(もしくは天下に対する罪状)が減ったことが、いずれ効いたらいい。ともあれ、王允の死は、史実より2ヶ月早くなったが、誤差のレベル。

呂布は、董卓と格闘に敗北して、長安を出奔する。呂布伝にあるように、袁術を頼る。このとき、まだ袁術は南陽にいて、呂布を厚遇したが、呂布が調子に乗ったので追い出したとか(范書)、そもそも呂布は裏切り者なので拒絶したとか(陳志)、うまくいかない。史実と異なり、「袁氏のカタキをとった」という功績が、呂布にはない。史実と、心理状態は異なるはずである。どちらかというと、呂布に、敗者としても肩身の狭さ、屈節が生じるというか。しかし、二度の「父殺し」はしていないから、道義的にはマシだなとか。

関東の盟主・朱儁

初平三年夏の条に掛けて、『後漢紀』が、

李傕等既破長安,懼山東之圖己,而畏雋之名。傕用賈詡計,使人徵雋。軍吏皆不欲應,雋曰: 「以君召臣,義不俟駕,況天子詔乎!且傕、汜小豎,樊稠庸兒,無他遠略,又勢均力敵,內難必作。吾乘其弊,事可圖也。」遂就徵為太僕。

と、李傕が賈詡の計略を用いて、朱儁を洛陽に徴す。朱儁は、このとき「李傕になら勝てる」といって、長安に入ってしまう。

いっぽう、『後漢書』朱儁伝には、初平三年夏(史実で董卓が死んだとき)に、陶謙が朱儁を、董卓と同じ「太師」にかつぐ。
徐州刺史の陶謙、前の楊州刺史の周乾、琅邪相の陰徳、東海相の劉馗、彭城相の汲廉、北海相の孔融、沛相の袁忠、太山太守の応劭、汝南太守の徐璆、前の九江太守の服虔、博士の鄭玄ら、敢て之を行車騎将軍・河南尹の莫府に言ふ。
史実でも、袁術は南陽にいる。名前が抹消されたが、きっと関わっている。陶謙・袁術は、袁紹たちがこの歳に領地の拡大に励み始めた歳、まだ長安の天子を向いていた。
初平元年、袁紹が「冀州十郡」で同盟を作って、指導力を発揮したように、徐州刺史の陶謙は、徐州の郡国の長官に声を掛けて、同盟を作っている。

このイフでは、董卓が、目障りな朱儁を長安に徴すが、朱儁は董卓に勝てないので、関東に留まる。すなわち、関中のゴタゴタに巻きこまれて病死することなく、関東の盟主として、朱儁が留まり続ける。袁術は、「徐州同盟」の部外者であるが、朱儁を支持することには同意。
というか、きらいな庶兄の袁紹より、朱儁に盟主を務めてもらったほうが、感情がおりあう。ひょんなことから本作は、朱儁が活躍する展開となってきた。
朱儁の子の朱晧は、袁術が任命した豫章太守の諸葛玄と対立する。この朱晧の取扱が、宿題となりました。

鄭泰・荀攸、韓遂・馬騰

董卓が死ななかった余波で。董卓を殺そうとした、鄭泰と荀攸の運命が変わる。鄭泰は、史実で南陽に逃げてきたから、本作でも逃げてくる。
しかし荀攸は、長安に繋がれたまま。このまま董卓が生き続けると、曹操が荀攸を得ることができない。どうなることやら。

馬騰と韓遂について。はじめ董卓は、馬騰・韓遂を長安にまねき、ともに関東と戦おうとした。李傕政権となると、韓遂を鎮西将軍として金城におき、馬騰を征西将軍として郿城においた。
つまり、馬騰・韓遂は、董卓と親和的である。本作では、并州の王允・呂布が消えたので、より「涼州政権」の色あいが強まる。涼州放棄論とか、たびたび唱えやがって、後漢め!復讐だ!という雰囲気。
郿城は、董卓の本拠地だから、本作で馬騰を置くわけにはいかないが、ともあれ、これが次の劉焉による謀略の伏線なので、確認しておきました。

袁術が兗州に北伐する前提

同じ初平三年の関東を確認しておくと、春に袁紹が公孫瓚を界橋で破る。
四月ごろ(董卓の暗殺と同じ月)、曹操が青州黄巾を、済北でくだして、30万を得る。青州兵を手に入れた。この青州兵が、本作では、孫堅と戦うことになる。
公孫瓚が龍湊で袁紹と戦い、公孫瓚は幽州に引っこんでしまう。

袁術が、公孫瓚と結んで「遠交近攻」を作り上げるのは、初平元年の後半、反董卓同盟がダレてきてから、公孫瓚が袁紹に対して優勢な、初平三年まで。本作で、どうやって公孫瓚を転がすのか、じっくりやりたい。

ちなみに、公孫瓚が弟を袁術に派遣して、、というゴタゴタは、初平二年。「孫堅 死せず」で始める本作においては、作品が始まる前となってしまう。劉虞をネタにして、なにかやろう。

初平二年秋、武帝紀によると、

黑山賊于毒、白繞、眭固等眭,申隨反。十餘萬眾略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞于濮陽,破之。袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。

黒山が、魏郡・東郡を攻めた。韓馥から冀州を奪ったばかりの袁紹と、その手下の曹操は、早くもピンチに陥った。
初平三年になると、武帝紀に、

三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。

とあるから、東郡太守の曹操は、治所の東武陽を于毒に攻められ、ぎゃくに于毒の本拠地を攻めることで破った。匈奴の於夫羅が、内黄で曹操におおいに敗れた。
この於夫羅は、つぎに袁術と結ぶので、詳しく見ています。つまり、袁紹が冀州、曹操が兗州を本拠地にしようと試みた矢先、それを妨害したのが、黒山と匈奴です。その黒山と匈奴が結ぶのが、袁術。やはり袁術の、初平四年の北伐は、袁紹・曹操に、領土を与えないようにするためのもの。

武帝紀 注引『魏書』に、

魏書曰:於夫羅者,南單于子也。中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢。會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其眾留中國。因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原、河內,抄略諸郡為寇。

於夫羅は、西河の白波とむすび、太原・河内を破った。この河内の情勢は、分かりにくくて、『三国志集解』でもモメていた。
袁紹・曹操が戦った於夫羅が基盤とした河内について。

『陳志』張楊伝:山東兵起,欲誅卓。袁紹至河內,楊與紹合,複與匈奴單于於夫羅屯漳水。單于欲叛紹,楊不從。單于執楊與俱去,紹使將麹義追擊於鄴南,破之。單于執楊至黎陽,攻破度遼將軍耿祉軍,眾複振。卓以楊為建義將軍、河內太守。

袁紹は河内で、河内太守の張楊と合わさり、匈奴の於夫羅もともに漳水にいた。於夫羅は「袁紹に叛こう」と張楊に持ちかけたが、張楊は袁紹についた。於夫羅は張楊をラチして、河内の袁紹の軍営を離れた。袁紹は麹義にこれを追わせ、鄴県の南で、麹義が於夫羅を破った。於夫羅は(麹義に敗れたものの)張楊を捕らえ(たまま)黎陽に至り、度遼将軍の耿祉を破り、匈奴軍は再び振るった。董卓は(袁紹に敵対した於夫羅と、運命共同体となった)張楊を建義将軍・河内太守とした。
理解しづらいが、袁紹・張楊が連携したのはポーズだけ。恐らく、河内に基盤をもつ張楊が、袁紹軍の軍糧の面倒をみた、袁紹が冀州に目を向けたので、同盟が自然解散となった、という程度でしょう。
張楊は、天子の争奪戦に加わるので、詳しく見ました。

曹操の話に戻すと、青州黄巾が任城相の鄭遂を殺した。兗州刺史の劉岱が死んだ。このとき、陳宮・鮑信が曹操を連れてくる。

武帝紀 注引『世語』:陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」鮑信等亦謂之然。

東郡太守の曹操に、兗州の長官を任せたいと。陳宮は、『陳志』呂布伝によると、東郡の東武陽の人。曹操が治所とする地。鮑信は、さっさと死ぬので、本作には関係ない。でも陳宮は、呂布・曹操の兗州・徐州争奪に関係するので、きっと本作で重要人物となる。

『後漢書』袁紹伝によると、建安元年、袁紹は上書した。「黄巾10万が、青州と兗州を焼いた。黒山・張楊が、冀城をおかした。私(袁紹)は承制し、議郎の曹操を兗州牧とした」と。つまり冀州を、黒山・匈奴・張楊のチームと、曹操・袁紹のチームが争っているときに、青州黄巾が公孫瓚に敗れて、いきなり流入してきた。
武帝紀によると、初平三年「冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為青州兵」とある。黒山・匈奴・張楊チームとの争いは継続しており、とりあえず曹操が、新たな兵力を手に入れたというかたち。

いよいよ初平四年

陳寿『三国志』袁紹伝と、范曄『後漢書』袁紹伝を照合する
この検討によると、初平四年春(袁術の北伐があった時期)に、袁紹の魏郡で反乱がおき、袁紹が家族を失いそうになる。

『范書』袁紹伝:三月上巳,大會賓徒於薄落津。聞魏郡兵反,與黑山賊干毒等數萬人共覆鄴城,殺 郡守。坐中客家在鄴者,皆憂怖失色,或起而啼泣,紹容貌自若,不改常度[獻帝春秋曰:「紹勸督引滿投壼,言笑容貌自若。」]。賊有陶升者,自號「平漢將軍」,[英雄記曰:「升故為內黃小吏。」]獨反諸賊,將部眾踰西城入,閉府門,具車重,載紹家及諸衣 冠在州內者,身自扞衞,送到斥丘。紹還,因屯斥丘,以陶升為建義中郎將。

このように、
魏郡の反乱は、黒山の于毒と結んで、鄴城を覆そうとする。前年、曹操が偉そうに、武帝紀にひく『魏書』で「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣」と戦術を自慢したくせに、于毒はまだ勢力を失っていなかった。たしかに、ただ東武陽の包囲が解けただけ。

◆于毒伝
どうでもいいと思っていた于毒ですが、重要人物かも知れない。
于毒に関する正史の記述をひろっておくと、

『范書』朱儁伝:自黃巾賊後,復有黑山、黃龍、白波、左校、……飛燕、白雀、楊鳳、于毒 、五鹿、李大目、白繞、畦固、苦唒之徒,並起山谷閒,不可勝數。……大者二三萬,小者六七千。賊帥常山人張燕,輕勇趫捷,故軍中號曰飛燕。善得士卒心,乃與中山、常山、趙郡、上黨、河內諸山谷寇賊更相交通,眾至(伯)〔百〕萬,號曰黑山賊。河北諸郡縣並被其害,朝廷不能討。燕乃遣使至京師,奏書乞降,遂拜燕平難中郎將,使領河北諸山谷事,歲得舉孝廉、計吏。
燕後漸寇河內,逼近京師,於是出儁為河內太守,將家兵擊却之。其後諸賊多為袁紹所定,事在紹傳。復拜儁為光祿大夫,轉屯騎,尋拜城門校尉、河南尹。

これは董卓が死ぬ前の記事。張燕は、于毒を含む、2-3万の賊帥をまとめて、中山・常山・趙郡・上党・河内で「黒山賊」を形成した。これは、董卓・袁紹にとって共通の敵となった。董卓の「并州牧」は着任しなかったから、このあたりは霊帝末から、統治が無効になってる。ねぶかい。
くわえて、
武帝紀には、さっき見たように、初平二年秋「黑山賊于毒・白繞、眭固等眭。十餘萬眾略魏郡、東郡」と冀州・兗州に侵入した。つまり冀州・兗州は、西から黒山、東から黄巾が攻めこんだところ。袁紹・曹操がここを得ることができたのは、「優良物件を掠めとった」でなく、「生半可な軍略では保てない、劣悪の地を狙うしかなかった」となる。もしも黒山・黄巾を破れば、天下を狙う地盤になるが、さもなくば、歴代の地方長官のように死ぬしかない。ハイリスク・ハイリタン。

袁術が、董卓ですら持て余した黒山と、うまく結んでいることに注意。これはイフ展開ではなく、まだ史実の話をしてます。

『陳志』袁紹伝にひく『英雄記』に、

聞魏郡兵反,與黑山賊于毒共覆鄴城,遂殺太守栗成。賊十餘部,眾數萬人,聚會鄴中。……紹到,遂屯斥丘,以陶升為建義中郎將。乃引軍入朝歌鹿場山蒼巖谷討 于毒,圍攻五日,破之,斬毒及長安所署冀州牧壺壽。

とあり、袁紹は初平四年に入ってから、袁術と同期して鄴城を攻めた于毒をやぶり、黒山(かつ袁術派)の于毒と、長安が任命した冀州牧の壺寿を殺した。
つまり、袁紹が韓馥を追い出したのは、初平二年秋だったが、冀州は、容易に袁紹のものにならず。まず、公孫瓚と、界橋・龍湊で激戦をした。袁紹と、袁術(于毒・公孫瓚)と、李傕(壺寿)の三つ巴がつづき、初平四年に至って、やっと袁紹が冀州を安定させたと分かる。于毒は敗死、公孫瓚は朝廷からきた趙岐の調停、壺寿は敗死、という決着。

兗州への北伐をする

初平四年の戦いを始めるとき、『范書』袁術伝に「初,術在南陽,戶口尚數十百萬,而不修法度,以鈔掠為資,奢恣無猒,百姓患之」と、袁術が好き勝手して、南陽を荒廃させたとある。
これは「孫堅への兵糧をケチる」と同じで、ふつうに財政が苦しいのでしょう。天下をねらうための軍を維持したいのに、収入源が1郡だけというのは。曹操みたいに、異なる発想により収益を生み出す!ことを、袁術がしなかった点はダメだった。しかし、財政のセンスが破綻していたわけではあるまい。

ながながと背景の確認をしましたが、要するに、武帝紀に、

四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。

とある戦いを、イフ展開で、転じさせたいのです。

『范書』袁術伝では「四年,術引軍入陳留,屯封丘。黑山餘賊及匈奴於扶羅等佐術,與曹操戰於匡亭,大敗。術退保雍丘,又將其餘眾奔九江」とあるが、武帝紀に基づいて書かれたと思われる。『范書』のほうでは「雍丘」の情報が多い。

まず、劉表が断ったという袁術の糧道は、柿沼論文で、本拠地の南陽と、遠征中の袁術軍をつなぐものと分かる。つまり、袁術が北伐したとき、南陽とのコードが繋がっていたが、劉表にそれを抜かれた。
袁術が「親征」した理由は、必勝の計略を確信していたからでしょう。
公孫瓚(袁紹に敗れたがまだ戦力あり)と、黒山とともに、袁紹・曹操から、冀州・兗州を奪うための戦い。

史実では、黒山の余賊と、於夫羅は、袁術をたすけた(武帝紀)。史実で袁術は、部将の劉詳を、匡亭におく。曹操は、劉詳を撃つ。袁術は劉詳をすくうため、曹操と戦うが、曹操に破られ、袁術が襄邑ににげた。
本作のイフでは、袁術は南陽に留まり、兵站を担当する。孫堅が董卓と戦ったときと、同じ役割分担。董卓と戦い終えてから、収穫の秋が2回あった。どうせ途中で欠乏するだろうが、これで、劉表に兵站を絶たれなくて済む。
孫堅が、匡亭の劉詳を助ける。孫堅軍と、数ヶ月前に編成されたばかりの曹操の青州兵が戦う。この編成のあまい青州兵が勝ったのは、袁術軍の兵站が続かなかったであり、歩騎の強さ・統制の巧みさによるものではないだろう。さすがにこの短期間で、仕上げるのは不可能。
青州兵は孫堅に打ち破られ、兗州のなかを東に流れる。漠然と、故郷の青州のほうを目指しつつ。曹操は、敗兵の収容にかかるが、30万の兵(実数は3万か)が、1万くらいに縮小する。「魏武の強」が、出鼻を挫かれる。

名実ともに豫州牧となる孫堅

袁術が南陽に残り、孫堅が青州兵に勝ったら、情勢はどう変わるか。
あんまり一気に、史実から変更したくない。戦場となった陳留郡は、袁術の友人(袁紹の友人でもあったが、袁紹に殺されかけた)の張邈が太守。「孫堅が陳留を占領する」は、リアルでない。「黒山と匈奴が勢いづいて、袁紹から冀州を奪いました」では、激変しすぎて、おもしろくない。

韓馥の死亡時期が明らかでないが、張邈の保護が行き届いているうちは、死なない。袁紹が強くなると、不安になって自殺してしまう。本作では、ぎりぎり韓馥に生き残ってもらい、「袁氏の故吏」として、袁術に仕えてもらおうか。袁紹に冀州を譲る譲らぬという問答で、史料に心理描写が多いから、使えるキャラ。

きっと勝利した孫堅は、兵糧の不安を理由に、汝南郡の安成(後漢における州治)に駐屯し、着々と郡県を味方につけてゆく、、くらいか。曹操には青州兵のマイナスを追わせたのだから、充分にイフ展開の意義があった。もっとも不安定な豫州を、孫堅が固める。河南にいる朱儁と連携を強める。

◆豫州刺史の史実との比較
史実の孫堅の死後、孫堅伝に「兄子賁,帥將士眾就術,術複表賁為豫州刺史」とあり、孫賁が豫州刺史となる。孫賁伝に「術從兄紹用會稽周昂為九江太守,紹與術不協,術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史,轉丹楊都尉,行征虜將軍,討平山越」とある。孫堅の死後、いとこの孫賁が士衆をひきいて袁術に従い、豫州刺史に「表」されたが、あまり実効性がなかったのか、丹陽都尉に転じた。袁術が豫州の支配力を失い、揚州を得たためだろう。
また、荀彧伝に、翌年の興平元年のこととして「豫州刺史郭貢帥衆數萬來至城下,或言與呂布同謀,衆甚懼」とある。

孫堅伝の裴注に、袁紹・袁術の最初の戦いが記される。
『呉録』はいう。関東の州郡で、みな勢力の拡大につとめる。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史として、豫州を襲い取ろうとした。孫堅は慨嘆した。周喁は、周昕の弟。
『会稽典録』はいう。曹操が義兵をおこすと、周喁は2千人で曹操にあわさり、軍師となった。のちに周喁は、孫堅と豫州をあらそう。孫堅に勝てず。たまたま次兄の九江太守する周昂が、袁術に攻められた。周喁は、周昂を助けにゆく。袁術にやぶれて、郷里(会稽)にもどる。周喁は、許貢に殺された。

このように見ると、はじめ、袁術は孫堅を豫州刺史にした。孫堅の生前、袁紹が会稽の周喁(曹操の軍師となるほど、関係が密接)を豫州に使わしたが、孫堅がはねのけた。孫堅の死後、孫賁が袁術を頼るのは、袁術が寿春に行ってから(孫賁伝)。つまり、袁術の支配が揚州に移った、初平四年以降。
すると、孫堅が初平二年に死んだあと、この初平四年までは、郭貢(石井仁氏によると許貢のこと)が豫州刺史となる。袁紹と袁術がドロドロに争った、必争の地が、それなりの重鎮である許貢(許靖と親交あり)によって、かりに抑えられたのは、納得がいく。李傕の朝廷による、措置であろうか。

李傕は、朱儁に官職を与えて、おのれに有利に動かそうとしたり、張楊に河内太守を与え直したりする。郭貢=許貢は、袁紹・袁術のあいだに打ち込まれたクサビだったのかも。そしてこの数年、豫州に強敵の侵入がなく、均衡状態だった。

すなわち、孫堅→孫賁と、直接バトンが渡っていない。

豫州刺史について検討してきたが、本作において孫堅は、陳留郡で青州黄巾を破ったのち、そのまま兗州に入るのではなく、豫州に留まった。
孫堅は、豫州から、袁紹の派遣した周喁を退けた(史実なみ)。南征して劉表を討ち(史実なみ)死なずに、劉表を南郡の1郡に閉じこめた(イフ展開)。袁術・劉表が争っているスキに、李傕が送りこんだ許貢が豫州刺史となった。許貢を攻める理由がないので、孫堅は南陽で力を蓄えた(イフ展開)。
折しも、袁紹・曹操が、匈奴・黒山に苦戦するのを見て、袁術はチャンスだと思い、孫堅を北上させた。許貢には、通行パスを既成事実として認めさせた。孫堅の勝利により、許貢の存在感が薄れ、豫州刺史の地位を固めた(イフ展開)。もしくは、孫堅が、豫州刺史から豫州牧に進んだ。

建安元年、曹操が献帝を争奪するとき、「かつて豫州黄巾が、袁術・孫堅に従った」という記述があるが、これを盤石なものにした。郭貢=許貢だとすると、つぎは「呉郡太守」として、朱治の前に立ちはだかる。きっと李傕の斡旋により、任地を移ったのだろう。孫堅集団と許貢が、任地が重なってケンカになるのは、よくあること。加えて「許貢の食客」キャラを、すでに出しておこう。これは、史実で孫策を殺すことになる。


史実で曹操は、袁術を揚州まで追い払ったあと、初平四年夏、定陶(済陰郡)に戻る。しつこく追いかけたのは、袁術が、黒山・匈奴と結びつくのを避けるため。残念ながら、孫堅が揚州に残った時点で、また黒山・匈奴と結びつく可能性を捨てきれない。
黒山の于毒は、史実どおり冀州を奪いかけて、袁紹に殺されてもいいかも。

下邳の陳瑀が、揚州刺史を続ける

呂範伝にひく『九州春秋』によると、揚州刺史の陳禕が死んだ。『英雄記』は、陳温に作る。ほかの史料と比べると、きっと陳温が正しい。袁紹は袁遺を揚州刺史として、袁術は、陳瑀を揚州刺史とした。陳瑀が勝利した。袁術が匡亭で敗れると、揚州のひとびとが陳瑀を攻めた。袁術が陰陵に入ると、陳瑀は下邳に逃げていった。

『范書』鄭泰伝に、「乃與何顒、荀攸共謀殺卓。事泄,顒等被執,公業脫身自武關走,東歸袁術。術上以為楊州刺。未至官,道卒,年四十一」とあり、袁術は、鄭泰を揚州刺史にしようとするが、道中で死んだ。

これらによると、すでに袁術は、陳温が死んだ192年(初平三年)、揚州刺史を任命できる立場にあり、袁紹の影響力を排除することができた。鄭泰が病没したので、下邳の陳瑀が、袁術に任じられた揚州刺史となった。
本作では、袁術が寿春に「入れてくれ」と、陳瑀に迫ることがない。袁術派の陳瑀は、もう少し、寿春で揚州の長官を務めることができる。今後の展開は、待ち。

公孫瓚が劉虞を殺さない

イフ展開をうまくやるには、ドミノ倒し。はじめの入力条件を1つ変えるだけで、あれよあれよと、変わっていく。何回も、入力条件を変えまくれば、「なんでもあり」のつまらん話になる。
董卓がイフ展開によって生還し、まる1年が経過。史実では、興平元年春、劉焉の子の劉範と、韓遂・馬騰が、李傕・郭汜に反乱する。史実なみの事件が起きるが、董卓が鎮圧する(李傕ですら鎮圧できたんだもの)。

劉焉は活躍してもらいたかったが、役者としては董卓に勝てないので(二袁との因縁の深さにより判断)、史実なみに失望して、死んでもらうことにしましょう。「天子の気」を求めて益州に行ったのに、史実なみに終了。

これにより、「禅譲」を思わせる董卓の権威づけが、着々とすすむ。董卓だから、曹操よりも仕事が早い。というか、曹操の場合は、袁術の失敗例がチラついたから、慎重になった。董卓の場合、妨げるものが、なにもない。このころ、関東に「天子が董卓に殺された」というウワサが流れる。まるで、延康元(220)年の漢魏革命のとき、益州に誤報が飛んだみたいに。

劉虞が初平四年(193)冬に公孫瓚に殺されるため、もうちょっと劉焉の計画を、前倒ししてほしい。初平四年の秋あたり、つまり半年ほど先に決起してもらう。
董卓が生存していることで、劉焉の危機感(天子を心配する気持ち)が高まり、決起に及んだ、という理屈づけでいけそう。

劉虞さんは、どうなっていたか。
初平二年春の『袁紀』に「韓馥、袁紹自稱大將軍,遣使推大司馬劉虞為帝,不聽;複勸虞承制封拜,又不聽,然猶與紹連結」とあり、劉虞は皇帝への推戴を断ったが、袁紹との交際を辞めていない。
本作では、初平四年秋、史実なみに鄴城を確保した袁紹は、「天子が殺された」というウワサを聞いて、劉虞に再び皇帝になれと要請。「天下に主がいないのはダメだ」と、経書からの引用なんかもしつつ、しつこく説得。
史実の劉虞は、『范書』献帝紀で、この歳の十月に公孫瓚に殺される。つまり、公孫瓚との最期の戦いに、着手しようかというころ。劉虞の側近たちも、「劉虞は、戦いのルールに通じていないのに、公孫瓚に勝てない。袁紹と結んで、身の安全をはかるとともに、漢朝を守ろう」と考える。
ついに劉虞は、袁紹の推戴により、漢の天子となりました!

この歳の九月に、袁紹・公孫瓚が、朝廷からきた趙岐によって和睦する。公孫瓚は、これによって、劉虞を殺すだけの余裕を得られたのだが。趙岐が朝廷を出発したのは、半年以上前だから、天子が殺されたのかどうかを知らない。


公孫瓚・袁術は、これに反発。史実では、初平二年ごろに、いちど公孫瓚・袁術が、劉虞を立てることに反対したが、その2周目。司隷に屯する朱儁と、豫州に屯する孫堅は、袁術・陶謙から供給を受け、再び長安を攻めるぞ!と準備をする。
袁術は、袁紹のことを、天下が聞こえるように批判する。「天子を救おうとせず、自前の領土ばかり拡大し、かってに天子を立てるなんて、どこまで自分勝手をすれば、気が済むんだ。バカな兄は、滅ぼしてやる」
やがて、董卓が天子を殺していないことが分かる。しかし、後戻りはできない。袁紹は、劉虞への批判をすべて自ら引き受け、別系統の「漢」を確立するために、河北の平定に向かう。史実で、じつは袁紹が、やりたかったこと。

年が変わって、興平元年と改元された。194年。
劉虞は正月に天子に即位した。董卓は、天子(献帝)を虐げながら、ますます権威をあげていく。このとき、天子が元服して、祭祀をおこなう。そこで董卓が、僭逆をはたらくとか。
蔡邕が呼び寄せて、鄭玄が合流。鄭玄は、漢に絶望して、革命を肯定できるロジックを考えたひと。蔡邕が董卓を支持するなら、それもいいかなーと、革命に関する議論が重ねられていく。

劉虞を袁紹が保護したので、公孫瓚は劉虞に手出しができない。
そういうわけで、興平期が始まるのでした。史実に比べて、生き存えているのは、孫堅・董卓・劉虞・朱儁。彼らは、いずれも主役の資格があったはずなのに、ちょっとした失敗や敗北により、やむなく退場した人たち。もう少し、粘ってもらいたい。そういう願いを叶える、イフ展開をやりたい。161201

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第3回 曹操が兗州を失う

曹嵩が殺される

史実では、袁術が寿春の獲得をがんばっている初平四年後半は、下邳の闕宣が天子を称して、陶謙と結ぶ。陶謙は、泰山郡に攻めこんで、逆に曹操から10城を奪われる。この遠征は、ただの曹操の勝利。

武帝紀:下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。


本作では、曹操は徐州10城を抜くだけの兵力がない。闕宣が天子を称するタイミングは、史実なみに初平四年とすると、本作では、董卓が献帝を殺したとウワサが流れる時期。たまたま一致する。
史実の陶謙は、初平四年の夏ごろ、朝廷に貢献して、徐州牧をもらう。つまり、長安の献帝を敬いつつ、領土を拡大するのは、陶謙のやり口として、充分にあること。陶謙には、同じように行動させ、兗州の泰山に、軍を駐屯させることに成功。という展開にしよう。
朱儁と袁術が、孫堅を媒介に密着したから、陶謙は、自前の領土を固めることに熱心となる。「忠臣の軍をバックアップするためにも、ほら、経済基盤は必要じゃん」と唱える。

曹操の父・曹嵩が殺されたのも、『三国志集解』武帝紀によると、初平四年のこと。陶謙が、夏に徐州牧の官職を得てから(朝廷との関わりは、これで充分と思ったのか)、年の後半に泰山を攻め、曹嵩が殺されたと。
武帝紀にひく『世語』によると、曹嵩は、泰山の華県にいた。曹操は、泰山太守の応邵に、曹嵩を迎えに行かせた。陶謙の騎兵が、曹嵩を殺した。応邵は、曹操をおそれて、袁紹ににげた。曹操が冀州を定めたとき、応邵はすでに死んでいたと。

『後漢書』宦者伝はいう。曹嵩は、曹操の起兵に反対した。琅邪にひっこんだ。
『後漢書』応奉伝はいう。応奉の子は、応邵である。曹嵩と、曹操の弟・曹徳が殺されたので、冀州牧の袁紹をたよって逃げた。

泰山太守の応劭は、史実で、陶謙が朱儁を盟主にしたとき、連名した人物。つまり、曹操・袁紹が、兗州・冀州を奪取する前から、この地に赴任しており、統治をしていた。陶謙に連なる太守。陶謙の起兵から、曹嵩を守れなかったのは、たしかに応劭の失点。なお、この時点で「曹操から逃げるため、袁紹を頼る」という行動が、史実で選択されていることに注意したい。

武帝紀にひく韋昭『呉書』はいう。曹嵩は、荷物たっぷり。陶謙は、都尉の張闓に、曹嵩を送らせた。泰山の華県と費県のあいだで、曹嵩を殺した。張闓は、淮南ににげた。曹操は、陶謙のせいにした。

ぼくは思う。張闓が淮南ににげたことを、もっと注目したい。張闓は、陶謙の都尉でありつつ、袁術と通じていたか。張闓は、曹操に攻められ、陶謙にも責められても仕方ない行為をした。身元を受け入れてくれる人がいないと、こんな危険なことしない。

史実なみに、初平四年の後半、陶謙(の関係者)が、曹操の父を殺す。袁紹・曹操と、袁術・陶謙が、当人たちの気持ちはどうあれ、ペアとなっている。

曹操が兗州を失い、袁紹に従う

ついにやってきました。いわゆる、徐州の大虐殺。興平元年夏。

夏,使荀彧、程昱守鄄城,複征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。

荀彧・程昱を留守に残して、曹操が徐州にゆく。本作でも、曹操は徐州にゆく。孫堅に青州兵を削られたから、史実ほど快進撃できない=虐殺が捗らない。これは、曹操のキャラ立ちを妨げるものの、結果的に、曹操にとってプラスではなかろうか。
魯粛・諸葛亮の動きに、変化を与えるところまで、物語の射程が及ぶか。

武帝紀:會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂,馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。

張邈・陳宮が、呂布を迎える。呂布については、
『三国志』と『後漢書』の群雄の列伝を比べて繋ぐ
ここで呂布伝を整理したばかり。袁術・袁紹・張楊(いずれも独立勢力だから、別々に頼ることができた)のあいだを転々として、ここに至って、陳宮に迎え入れられる。本作の呂布は、董卓を殺害未遂にした以外は、史実と同じ。

この「曹操を兗州から追い出す」作戦が、在地の陳宮によって企画され、陳留太守をやって5年目の張邈が参加している点から、「輿論」とでも言うべきもの。袁紹が割拠に熱中し、曹操もその手先に落ちたが、張邈は良心を保っている。いかにも名望家の安定感。その分、曹操のほうが戦さが上手くなり、史実では張邈・張超は滅亡する。このとき曹操は、本拠地を温めず、徐州を転戦しまくり。まだ「袁紹の手先」のような使われ方をしている。
史実で、曹操がバージョンアップして独自性を打ち出すのは、許県の屯田(経済資本)と、献帝の奉戴(政治資本)による。この時点では、中原の覇者になるようには見えない。本作でも同じ。

張邈・陳宮の黒幕は、史実ベースでも袁術だと考えています。

『三国志』呂布伝を読む 第2回 張邈と呂布兗州で挙兵

武帝紀よりも詳しく、張邈伝を兼ねるのが、『陳志』呂布伝。

呂布伝:興平元年,太祖複征謙,邈弟超,與太祖將陳宮、從事中郎許汜、王楷共謀叛太祖。宮說邈曰:「今雄傑並起,天下分崩,君以千里之眾,當四戰之地,撫劍顧眄,亦足以為人豪,而反制於人,不以鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善戰無前,若權迎之,共牧兗州,觀天下形勢,俟時事之變通,此亦縱橫之一時也。」邈從之。

興平元年、ふたたび曹操は、陶謙を攻めた。張邈の弟・張超、曹操の部将・陳宮、從事中郎の許汜と王楷は、曹操に叛いた。陳宮は情勢を分析し、張邈に挙兵を勧めた。張邈は、挙兵した。
許汜と王楷というのが、ザコキャラに見えるが、呂布が徐州に入ってから登場するので、忘れてはいけない。

『陳志』高柔伝がいう。高柔は、陳留郡の人。高柔は、郷里の人に「太守の張邈は、ここ陳留で志を得た。(曹操に攻められて)陳留が戦場になるのが恐い。皆さんと避難したい」と。みなは、張邈と曹操が仲がいいので、高柔の心配を無視したと。高柔は、高幹の従弟である。もちろん高幹は、袁紹の甥。曹操の足元・陳留に、袁紹の血縁がいた。袁紹集団と、曹操集団は、地理的にも人的にも、混合している。最後まで。
『通鑑』がいう。前の九江太守で、陳留の辺譲は、曹操をそしった。曹操は、辺譲と妻子を殺そうとした。兗州の士大夫は、曹操を恐れた。陳宮も内心で、曹操に疑問をもった。辺譲の没年は、異説あり。

孫堅が、荀彧を捕虜とする

史実で、このとき荀彧に会いに来たのが「豫州刺史の郭貢」さん。

『後漢紀』興平元年:豫州刺史郭貢率衆數萬人來至城下。或言與呂布同謀,衆甚懼。貢求見彧,彧將往,或曰:「君一州鎮也,往必危,不可!」彧曰:「貢、邈分非素結,今來速,計必未定;及其未定說之,縱不為用,可使中立。若先疑之,彼將怒而成計。」貢見彧無懼意,謂甄城未易攻也,遂引兵去。 操引軍還攻呂布。

このとき豫州刺史の郭貢(許貢)は、荀彧を攻めようとした。許貢はポンコツなので、荀彧に追い返されたが。本作は、豫州刺史の孫堅が、荀彧の城下にくる。史実なみに荀彧が強気で臨んだとしても、孫堅は青州兵を破った実績もある。県城を降して、荀彧を捕らえる!
荀彧を失った曹操は、慌てて徐州から還ってこざるを得ない。
きっと孫堅と荀彧が、「後漢に忠を尽くすとは、どういうことか」を問答する。荀彧は孫堅に、「曹操の武略を活用して、天子を推戴するつもりだ」と話すだろう。まだ、計画段階に過ぎず、まったく萌芽がないけれど、と。
孫堅も、天子に尽くすことに異論はない。しかし、「なんで曹操なの?袁術でいいじゃん。袁術は、そういう志を持っているよ」と説得する。袁紹を嫌った荀彧は、きっと袁術も嫌い。すると孫堅が「オレの軍師になって」と言うかも。オフレコ。
孫堅が荀彧を殺したりはせず、やがて解放するのだが、このときの会話が、かなり重要になりそう。伏線を仕込める。

袁術は、かつて少府の陰脩が、董卓の使者となって慰撫にきたとき、これを殺したことがある。この陰脩というのが、荀彧のもと上官。潁川太守のとき、属吏を務めた。この関係性を、孫堅がはじめて荀彧から聞かされるのかも。
孫堅も、さんざん士人を殺してきたから、ひやっとする。

興平元年の秋に、曹操が徐州から兗州に帰って、呂布と戦闘開始。

武帝紀:秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兗州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。
呂布伝:太祖初使宮將兵留屯東郡,遂以其眾東迎布為兗州牧,據濮陽。郡縣皆應,唯鄄城、東阿、范為太祖守。太祖引軍還,與布戰於濮陽,太祖軍不利,相持百餘日。是時歲旱、蟲蝗、少谷,百姓相食,布東屯山陽。二年間,太祖乃盡複收諸城,擊破布於钜野。

この戦いは、食糧不足により、引き分ける。
袁紹は、曹操に人をやって、「私を頼りなさい」と誘う。曹操は兗州を失い、食糧を失い、本作では荀彧を失ったので、程昱の励ましも虚しく、冬十月、兵をまとめて冀州にゆく。
呂布は、みごとに兗州牧となる。

呂布は、史実で徐州刺史となるが、一貫性がなくて、関係者に迷惑をかけまくる。袁術・劉備・曹操を巻きこんで、だれが敵で、だれが味方なのか分からない。同じことを、ちょっと前倒しして、兗州でやるだけ。
兗州は、袁紹と領土を接しており、互いに攻撃しやすいから、かなり不安定だろう。張邈・陳宮は、史実と異なり、とりあえず計画は成功したものの、呂布を州長官として、頂き続けることには懐疑的。まだまだ、曹操は挽回のチャンスがありそう。

劉備のこと

そろそろ、陶謙の死が近づいてきた。先主伝を見ておきたい。

先主伝:往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。數有戰功,試守平原令,後領平原相。袁紹攻公孫瓚,先主與田楷東屯齊。曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷與先主俱救之。時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎,又略得饑民數千人。既到,謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。謙表先主為豫州刺史,屯小沛。

劉備は公孫瓚を頼って、袁紹と戦い、平原相となった。曹操が徐州を攻めると、陶謙は(公孫瓚の任じた)青州刺史の田楷に、救いを求めた。劉備は、幽州の烏丸雑胡騎をひきい、飢民の数千人を得た。
思うに、この「飢民」というのは、青州・幽州・兗州あたりを彷徨っている、黄巾の残りだろう。主力は、公孫瓚に敗れて流浪し、曹操に吸収された。しかし、完全にゼロになったわけではなく。劉備は、北方異民族の兵をひきい、流民を吸収した。曹操と、やっていることは同じである。
陶謙は、劉備に丹陽兵を増やし(物騒なものなので、混ぜるな危険)、豫州刺史として、小沛に屯させた。

以上の史実では、豫州は、荀彧に追い返された刺史の郭貢が治めるから、陶謙が劉備をぶつけて、州長官が重複しても、戦いにならなかった。しかし本作では、袁術の任じた孫堅に、陶謙が劉備をぶつける行為である。当然ながら、劉備と孫堅が、戦うことになるだろう。
戦うのも時間の問題。しかし残念ながら、劉備が小沛に駐屯して(曹操が兗州に帰った後だろう)すぐに、陶謙が死ぬ。本作で、孫堅と劉備の直接対決は、ここでは描くことができない。

徐州の麋竺・陳登、北海相の孔融が、劉備を徐州刺史に勧めるのは、史実と変わらないだろう。むしろ、袁術が徐州に入ってくるリスクが、史実よりも高いから、劉備に対する輿望は、高いものになる。徐州は、強力な州長官を臨んでいない。

先主伝:先主曰:「袁公路近在壽春,此君四世五公,海內所歸,君可以州與之。」登曰:「公路驕豪,非治亂之主。今欲為使君合步騎十萬,上可以匡主濟民,成五霸之業,下可以割地守境,書功於竹帛。若使君不見聽許,登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂先主曰:「袁公路豈憂國忘家者邪?塚中枯骨,何足介意。今日之事,百姓與能,天與不取,悔不可追。」先主遂領徐州。

袁術の悪口を言いまくりだが、この悪感情は、本作でもきっと同じ。

公孫瓚が幽州を放棄する

さっき(初平三年秋)史実なみに「趙岐が、袁紹と公孫瓚を仲裁」と書きましたが、これは李傕政権だからやること。董卓は、そんなことしない。むしろ、潰しあわせるか。
劉虞を奉戴した袁紹と、公孫瓚の戦いは、史実よりも苛酷をきわめる。公孫瓚は、黒山に身を投じて、河内に抜け、南陽の袁術に合流しようとする。かつて公孫瓚は、従弟の公孫越を袁術に送ったことがある。同じことを、自らやったのである。

興平元年のうちに、公孫瓚は幽州から消える。きっと袁紹は、曹操を戦線に投入して、公孫瓚を圧倒した。もう、袁紹が自ら、戦場に立つ必要はない。

袁紹が幽州で、烏桓を統治する

公孫瓚が去ることで、袁紹の北方異民族の対策が、早くも本格化する。鄴県を天下の中心として、「北狄」を従える。史実の袁紹は、5年後の建安四年まで、公孫瓚に手こずって、次の手を打つことができない。

渡邉義浩先生の「後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹」がウェブ上で読めまして、

於扶羅は、反董卓連合軍が結成されると、張楊と共に袁紹に属した。袁紹こそ、後漢の体制内異民族政策の継承者であったためであろう。しかし、 袁紹は、於扶羅の単于の地位を保証することはなかった。 初平元 (一九〇)年より、袁紹は、幽州牧の劉虞を皇帝に擁立しようとしており( 『三国志』巻一 武帝紀) 、後漢の朝廷より於扶羅に単于の地位を引き出すことができなかったのである。初平二(一九一)年、於扶羅は張楊を人質にとって袁紹に背いたが、袁紹配下の麹義に敗れた。初平四(一九三)年には、陳留郡に進出した袁術を黒山賊とともに支援する。皇帝を称する準備をしていた袁術にとって、北方の異民族を象徴する匈奴を勢力下に収めることは、理念的にも重要な意味を持った。しかし、袁術は曹操に敗れ、最終的に於扶羅は曹操に降服する(『後漢書』列伝七十九)。

と匈奴について書かれ、烏桓について、

一方、烏桓は、袁紹に従い続けた。於扶羅の離反に学んだのか、袁紹が烏桓を体制内異民族として積極的に位置づけたためである。
建安の初、冀州牧の袁紹、前将軍の公孫瓚と相持して決せず。蹋頓使を遣はして紹に詣りて和親を求め、遂に兵を遣はして助けて瓚を撃ち、之を破る。紹制と矯りて蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに賜ふに、皆単 于の印綬を以てす。
袁紹と公孫瓚との対峙中、、王を自称していた丘力居の子である楼班が年少であることに乗じて、烏桓の実権を握った従子の蹋頓は、自らの地位を確立するため、袁紹に協力して公孫瓚を撃つことを申し出た。袁紹は、朝廷の「制」 (命令)と偽って、蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の称号と印綬を附与する。匈奴の南単于の不在をよいことに、その地位を烏桓に与えたのである。……ただし、ここで袁紹は、単于の地位を蹋頓一人に与えていない。蹋頓は、独裁的な権力を確立できてはいなかったと考えてよい。また、袁紹も、烏桓の権力者が一人になることを望まなかった。このため、烏桓の内部では混乱が続いた。

以後、『後漢書』烏桓伝を参照。

本作では、袁術が南陽に残っているので、南匈奴の於夫羅を、ひき続き味方にして、袁紹に対抗する。袁紹は、烏桓に単于の称号をバラまいて、体制内の異民族として取りこむ。これは、後漢の伝統的なやりかた。

天子の問題については、袁術は「長安の天子を救いたいけど、行動が伴わない」状態で、袁紹は「劉虞を即位させた」という状態で、袁術が準備が整っていないので、なんともいえない。しかし、異民族政策については、ロコツな闘争が始まった。
のちに、魏と蜀が、羌族を味方に付けるために、抗争するような感じ。

劉焉が病死し、董卓が益州を得る

公孫瓚が南陽に来ることで、「董卓を攻めよう」と、公孫瓚が袁術にせっつく。もともと公孫瓚は、本心はどこにあろうと、袁紹に対抗するために、「長安の天子に忠」であることで、政治的な立場を得た。袁術と、それが共通している。
しかし袁術の目は、徐州のほうを向いていた。関中から出て来ない。それだけでなく、董卓の勢力は、強くなっていた。なぜなら、益州を得たから。

史実で劉焉が死ぬと、朝廷から益州牧が赴任したり、在地豪族が反逆したり、張魯が独立したり、益州はごちゃごちゃになる。
ここで董卓は、重鎮というべき人物を、益州に送りこむ。三公レベルかも知れない。

『陳志』劉焉伝:州大吏趙韙等、貪璋溫仁、共上、璋爲益州刺史。詔書因以爲、監軍使者、領益州牧。以韙爲征東中郎將、率衆擊劉表。
劉焉伝にひく『英雄記』:焉死、子璋代爲刺史。會長安拜潁川扈瑁爲刺史、入漢中。荊州別駕劉闔、璋將沈彌、婁發、甘寧反、擊璋不勝、走入荊州。璋使趙韙進攻荊州、屯朐䏰。

史実で、李傕政権は、潁川の扈瑁を送りこんだ。これでは、重みが足りなかったようで、けっきょく、益州豪族の意向が優先して、無力そうな劉璋が益州刺史となり、微妙なバランスを取って、20年の統治をする。
董卓は、関中政権なので、函谷関を東に出て行かないかわりに、後方を抑えるのは積極的。野心家の劉焉が死んだのは、千載一遇のチャンス。だれを益州に行かせようか。また、州郡長官を任命したがいいが、裏切られたのでは、話にならない。
いや、そのひとが面従腹背して裏切り、西南の地図を書き換えるのがおもしろいのか。該当者を考えます。

馬日磾と劉繇が揚州にむかう

史実では、この興平元年、馬日磾が持節して、寿春の袁術を訪れる。劉繇が揚州刺史となって、曲阿に着任する。『後漢書』献帝紀も、『資治通鑑』も、月を特定できていない。
このあたりは、史実の袁術とのギャップを、ていねいに埋めていきたいので、回を改めて書きます。孫堅は豫州にいるけど、呉景とか孫賁は、揚州の攻略に向かい、孫策もそれに伴っている。という話にして、なるべく史実からズラさない。

孫堅が豫州にいる価値は、徐州の劉備をどう処理するのか(兗州の呂布は、どうなるの)、と、献帝が長安を溢れたとき、どうやって曹操に対抗するか(だれが献帝を得るのか)という問題にリンクしてくる。161201

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第4回 董卓が称帝、天子が東遷 【new】

物語の山場、董卓の皇帝即位

すでに書いた設定のなかで、いくつか課題を。
まず、董卓がうまく絡んでない。というのも、董卓が生き残っても、ストーリーに生かしづらい。史実では、袁紹・袁術・曹操は、関東の戦いに熱中する。いっかい長安の天子のことは忘れる。その通りになってしまってる。
董卓が残ると、つねに西を配慮しなければならない。しかし、董卓の戦略として、彼が軽々しく関東に再び進出してくるとは考えにくい。かといって、たとえば史実より強化された袁術が、函谷関をノックするとは考えにくい。あまりに不利だから。
やはり、董卓に暴れてもらうか。
董卓が、かなり強引に禅譲を達成する。天子を殺したと風聞が流れる。これを、史実における興平二年秋の、天子の東遷が曹陽で李傕に攻撃され、生死不明!と同じ時期にする。
天子がふらふらと函谷関から出てきて、さあどうする?と論争が起こる。董卓は、この興平二年の混乱を起こすために、着実に、涼州・益州を固めてもらおう。

それから、やっぱり劉虞を生き残らせない。もしも劉虞を立てると、袁紹が身動きが取れなくなる。天子が長安から溢れたとき、配下の軍師が分裂する!を描けなくなる。東西の分裂が確定してから、改めて劉虞を立てる意味があまりないか。

曹操に敗れた公孫瓚が、徐州へ

◆曹操が公孫瓚を鮑丘で撃破
張邈・呂布に兗州で敗れ、袁紹の手下にもどった曹操。まず公孫瓚を、野戦に誘い出して、これを破る。『范書』献帝紀によると、興平二年、公孫瓚と麹義が鮑丘で戦い、公孫瓚が大敗したらしい。麹義のところに曹操をスライドさせ、公孫瓚を再起不能に。
公孫瓚は、袁術を頼って南下。君主の論評にかんして一家言をもつのが、趙雲。趙雲と袁術が接点をもち、なにかトラブルを。

『資治通鑑』によると、建安元年の春から夏、青州刺史の袁譚が孔融を攻めた。孔融は城を失い、東山にのがれた。袁譚が青州にきたとき、領土は黄河の西で、平原郡だけだった。公孫瓚がおいた田楷を追い出し、孔融を追い出した。だが袁譚は奢ったので、声望はおちたと。
公孫瓚が幽州から去ったら、田楷が持ち堪えられない。

◆公孫瓚が劉備から、徐州刺史を譲られる
いや、公孫瓚が袁術を頼ると書いたが、そうでなく、
徐州刺史の劉備を頼るか。劉備は、史実のように兗州で敗れた呂布を迎えなくて済んだが、かわりに同門の恩人・公孫瓚の訪問を受けた。青州のほうから抜ければ、徐州にたどり着くことができる。
公孫瓚と劉備のドロドロした関係を描ける。これは、三国志ファンが、もっと見たかったやつだ。呂布が来るよりも、劉備は扱いに困る
もちろん劉備は、公孫瓚に刺史を譲る。劉備が、公孫瓚を上回る要素は、ひとつもない。しかし徐州の名士は、公孫瓚が名士を虐げることを知っており、それに同意しない。徐州は分裂の火種をかかえる。公孫瓚は、袁術派である。史実の徐州刺史の劉備は、袁術と対決するが、公孫瓚の鮑信はこれと違う。

公孫瓚が鮑丘で曹操に敗れて、「易京に閉じ籠もろう」と考えたとき、どこかの賢者が「閉じ籠もっても、将来性がない。青州刺史の田楷を頼り、徐州をめざせ。徐州刺史は、あなたが恩を施した劉備ではありませんか。徐州・青州に、新しい勢力を築くことができる」とか、助言してくれて。
史実では、徐州の名士たちが、呂布を翻弄する。呂布だから、わりとチョロかった。しかし公孫瓚だったら、どうだろう。必ずしも学問が得意でない点で、呂布と公孫瓚は同じだが、、盧植の門下だったという、社会関係資本を使えそう。呂布よりも、もうちょい脳みそがあって、かつ袁術との親和性が高い。袁術と結んで(都合によっては、袁術を利用して)袁紹を破ってやろう!という、明確な方向性がある。海路を経由して、遼東の公孫氏とも結びつくかも。
やはり、徐州にきた公孫瓚に、参謀を与えないと。盧植(192年に袁紹の軍師として死去)の子として、故郷の涿県に閉じ籠もっていた、盧毓(『陳志』に列伝あり)が、公孫瓚の軍師になるとか。

曹操が河内太守の張楊を攻撃

史実の曹操は、2年にわたって呂布と戦っており、興平二(195)年は、呂布と兗州を争っている。秋八月、雍丘を囲み、張超・張邈を夷三族にする。冬十月、天子から兗州牧にしてもらう。十二月、東のかた陳地を略す(武帝紀)

本作では、張超・張邈は、陳留で勢力を保っている。
かわりに曹操は、袁紹の手先として公孫瓚を破ったあと、袁紹の領土を拡大するため、河内太守の張楊を攻めよう。

史実で初平・興平期に、曹操が兗州・徐州を攻めるときも同じだが。曹操の行動は、袁紹の領土を、順番に押し広げるために行われる。やがて、曹操が独立する地盤になる、というのは別の話。「袁紹と曹操の利害関係が(互いの胸中は別にしても)一致している、というのが二人の関係である。

張楊伝は、袁紹が冀州を獲得する前後の記事で、単于にラチられる形で、袁紹を攻めたが、そのあと、いきなり時系列が飛ぶ。

張楊伝:天子之在河東,楊將兵至安邑,拜安國將軍,封晉陽侯。楊欲迎天子還洛,諸將不聽;楊還野王。建安元年,楊奉、董承、韓暹挾天子還舊京,糧乏。楊以糧迎道路,遂至洛陽。謂諸將曰:「天子當與天下共之,幸有公卿大臣,楊當捍外難,何事京都?」遂還野王。即拜為大司馬。

興平二(195)年、天子が河東にくると、張楊は安邑にゆき、安東将軍をもらう。張楊が天子を洛陽に連れようとするが、諸将に反対された。建安元(196)年、楊奉・董承・韓暹が、天子を洛陽に連れていくとき、張楊が食糧を支援した。
張楊は一貫して野王に屯し、そばで天子を見てる。政争に巻きこまれるのを避けたのだろうか。食糧を支援できるほどには、財政に成功し、統治者として有望。

張楊伝は、呂布が198年末に死ぬ前に、記事が飛んで、

張楊伝:楊素與呂布善。太祖之圍布,楊欲救之,不能。乃出兵東市,遙為之勢。其將楊醜,殺楊以應太祖。楊將眭固殺醜,將其眾,欲北合袁紹。太祖遣史渙邀擊,破之於犬城,斬固,盡收其眾也。

と、曹操に攻められた呂布の心配をしながら、部将の楊醜に殺された。楊醜の謀反は、曹操に呼応したもの。張楊には、注引『英雄記』によると「楊性仁和,無威刑。下人謀反,發覺,對之涕泣,輒原不問」という、君主として、勢力を取りまとめる上での欠陥があった。
地政学的には、かなり有利な場所にいたにも関わらず、無為だった。これは、褒め言葉だけど、「自守」を達成する点で、劉表・劉璋に近い。

史実で張楊は、袁紹・袁術のどちらからも中立のようだった。陶謙は、袁術派を保ち、最末期、劉備に徐州を譲るときだけ、袁術と敵対的になった。その点で張楊は、陶謙よりも「独自性」のある群雄。
并州出身で、河内の強兵を連れているのは、呂布と同じ。呂布が、根拠地を維持できなかったことに比べると、河内に留まり続けた張楊の才覚は、優れている。


◆曹操が河内太守となる
本作で袁紹は、張楊が目障りなので、曹操に「張楊を討て」と命じる。曹操が張楊を攻める。張楊は、ふたたび黒山や匈奴と連携して、袁術に救いを求める。しかし、曹操の攻略が早すぎて、河内郡と、張楊が積み上げた資産とが、曹操のものになる。袁紹は、曹操を河内太守に任命する。
曹操は、史実では兗州から、豫州の潁川に移動した直後に、天子の東遷にであう。本作で曹操は、河内に移動した直後に、天子の東遷にであう。
史実と同じく、天子をめぐって、天子を奪いあう。

曹操が河内を得たころ、孫堅に捕らわれた荀彧が帰ってくる。そして「この河内郡には、いい人材がいるんですよ。曹操さんの職権によって、招くことができます」
曹操「だれ?」、荀彧「司馬朗・司馬懿の兄弟です」。この時点で、袁紹の手下であり、かつ徐州虐殺が小規模だった曹操。史実のように、司空でもない。司馬懿は、それほど抵抗する理由もなく、出てきてくれそう。

興平二年、忠臣_朱儁の突撃

董卓は、劉辯を殺した前科がある。ついに董卓が皇帝になるぞと聞こえたので、本作で生き残った朱儁は、袁術に協力を募って、函谷関をノックする。
このとき、どれだけの「諸侯」もとい、州郡長官が味方してくれるか。袁紹のところは、絶対にモメる。劉備は、陶謙の後継者として、何らかの供出はする。孫堅・張邈は、もちろん参加。呂布も参加だろう。うーん、顔ぶれが足りない。

ともあれ、朱儁が盟主となり、孫堅が主力となり、おもなプロデューサーは袁術で、函谷関を突破する。史実における、李傕・郭汜の対抗戦レベルの喪乱を巻き起こす。董卓を討つことには失敗するが、献帝が逃亡するスキを作ることには成功して、朱儁は戦死。
天子は、朱儁が長らく留まり、袁術が復興を支援した、洛陽に落ちつく。史実では、洛陽は荒廃して、曹操が許県に連れていく。朱儁なきあと、洛陽を守るのは袁術派。袁術は融通が利かないから、防御に不利な洛陽に、天子を置く。
三公の楊彪は、袁術の姉妹を妻とするから、楊彪を中心として朝臣と付き合う。賈詡のアドバイスで、張済・張繍が、董卓をうらぎって、天子を守る軍となりそう。

チャンスを迎えたのは、袁紹。だって、豫州の孫堅・兗州の呂布・徐州の劉備が、ほぼ出払ったのだから。このまま南下すれば、河南4州を、ほぼ得ることができる。
かつて史実で公孫瓚が「厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史とした。それぞれ、郡太守や県令をおいた」と、刺史のバーゲンセールをやって、勢力の拡大を試みた。
袁紹は、配下がモメまくる。「天子を助けにいくべき」「いや、河南4州の刺史を派遣すべき」「動くべきときでない」とかモメる。
曹操が袁紹を頼ったとき、袁紹から曹操に転職した、荀彧・郭嘉などが、いちど統合される。このときの論争に加わるかも知れない。

曹操が献帝をラチする

時期はまた検討するが、曹操が洛陽から天子をラチして、自前の拠点におく。史実の曹操だって、史書が美化しているが、実態は天子のラチだから。史実では、兗州・豫州北部を領有し、許県の屯田があったから、天子をまかなうことができた。むしろ、まかなうために、すでに屯田を作っていた許県に天子を移したのでは、と思えるほど。
曹操の「ラチ」を、史実をちょっと組み替えるだけで表現したい。

本作の曹操は、河内の1郡のみを治める。自前では天子をまかないきれずに、「そばに置け」という袁紹に逆らえず、天子が袁紹のもとへ。袁紹の内紛が、さらに激しくなるという。もしも袁紹が、天子を奉戴したらは、やってみたいテーマです。

董卓は皇帝になった以上、四方を討伐しなければならない。董卓と袁術の直接対決!そして袁術は、背後を袁紹に突かれたくないから、袁紹も出て来ざるを得ない状況を、外交によって作り上げる。そういう見通しで。

史実の献帝の、興平二年~建安元年の動きを整理したいので、イフ展開は、ちょっとお休み。161203

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