表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

10)3つに分裂した東晋

司馬徳宗は、北府の王恭や桓玄に勝った。東晋の全盛が訪れるか?

新しい悪役、司馬元顯

是年冬,德宗遣使朝貢,並乞師請討姚興。二年夏,德宗又遣使朝貢。

この年の冬、司馬は北魏に朝貢した。司馬徳宗は、姚興を討ってくれと、願い出てきた。
二年夏、司馬德宗はふたたび、北魏に朝貢した。

合戦で勝利した司馬徳宗が、後ろ盾が欲しくて、強者の北魏に承認を求めてきた。そんな図です。東晋から見たら、「内乱が終わり、外に手出しする余裕が出てきた。華北の夷狄を手なずけておくか」というニュアンスなんだろうが。
人のやるコミュニケーションなんて、いつも食い違うもの。まして国同士の記録が、一致するわけないよね。


以元顯為揚州刺史,道子有疾,元顯懼已弗得襲位,故矯以自授,而道子弗知。既瘳,乃大怒,以元顯已拜,故弗複改,於是內外政事一決元顯。道子少而耽酒,治日甚希,至是無是,俾晝作夜,時謂道子為東錄,元顯為西錄,西府千兩輻湊,東第門設雀羅矣。元顯年少,頓居權重,驕奢淫暴,於是遠近譏之。

司馬元顯が揚州刺史になった。
司馬道子が病気になった。子の司馬元顯は、父の位を継げないことを恐れて、勝手に揚州刺史を自称したのだ。司馬道子は、子の司馬元顯がやったことを知らなかった。
司馬道子は重篤だったが、司馬元顯の自称を知り、大いに怒った。だが司馬元顯がすでに、揚州刺史に任命されてしまっており、キャンセルできなかった。内外の政事は、全て司馬元顯に決定権が移った。

司馬道子を上回る悪党の登場が、『魏書』に望まれるわけで。司馬元顯が、まだ生きてる父から、位を奪ったのは、手続きとしてはよくないけど・・・非常時だしね、病人が最高権力者じゃ、政事が滞るじゃないか。

司馬道子は、若いときから酒好きで、酔っていない日はとても少なかった。至是無是、俾晝作夜。世間では、道子は「東録」、元顯は「西録」と言われた。子・元顯の西府では千兩の輻湊があり、父・道子の東第では門は雀羅を設けた。元顯が年少のとき、頓居權重、驕奢淫暴だった。だから遠近の人は、司馬元顯の性格をそしった。

五斗米道、孫恩の乱

初,德宗新安太守孫泰以左道惑眾被戮,其兄子恩竄於海嶼,妖黨從之,至是轉眾,攻上虞,希縣令,眾百許人徑向山陰。會稽內史王凝之事五斗米道,恩之來也,弗先遣軍,乃稽顙於道室,跪而咒說,指麾空中,若有處分者。官屬勸其討恩,凝之曰:「我已請大道出兵,凡諸津要各有數萬人矣。」恩漸近,乃聽遣軍。比兵出,恩已至矣。戰敗,凝之奔走,再宿執之。旬日,恩眾數萬,自號平東將軍,逼人士為官屬。於是諸郡妖惑,並殺守令而應之,眾皆雲集。吳國內史桓謙出奔,吳興太守謝邈被害。

はじめ新安太守の孫泰は、左道で民衆を惑わしたから、戮された。孫泰の兄の子・孫恩は、海嶼で竄し、妖党は孫恩に従った。ここに到り孫恩は民衆の進路を転じ、上虞と希縣令を攻めた。は、100人ばかりの人が、山陰(会稽)への道を向った。
會稽內史の王凝之は、五斗米道の信徒だった。孫恩がきたと聞いて、軍を差し向けなかった。

孫泰や孫恩がやった「左道」とは、五斗米道である。

王凝之は、道室で稽顙し、ひざまづいて呪文を唱えた。指を空中に靡かせた。孫恩を討つべきだという役人がいると、王凝之は言った。
「私はすでに、大道(東晋)に出兵してほしいと願ったのだ。会稽郡の各渡し場には、数万人が配置されているよ」
孫恩がいよいよ近づくと、王凝之は出兵を命じた。王凝之が兵を出そうとしていると、孫恩が到着してしまった。王凝之は敗れて、逃げたが、捕まった。

王凝之は、孫恩を手引きしたのか?孫恩に捕まっても、斬られてない。
東晋の求心力よりも、五斗米道の求心力が勝り、重要な土地・会稽郡の役人ですら、裏切らせた。東晋、ひどいなあ。

10日で、孫恩の軍は数万になった。孫恩は自ら平東將軍を名乗り、人士に迫って配下の官屬とした。諸郡は妖惑し、太守や県令を殺して、孫恩に応じた。民衆はみな孫恩の下に雲集した。
呉國内史の桓謙は出奔した。呉興太守の謝邈は、殺害された。

自德宗以來,內外乖貳,石頭以外,皆專之于荊、江,自江以西則受命於豫州,京口暨於江北皆兗州刺史劉牢之等所制,德宗政令所行,唯三吳而已。恩既作亂,八郡盡為賊場,及丹陽諸縣處處蜂起,建業轉成蹙弱。且妖惑之徒,多潛都邑,人情危懼,恆慮大兵竊發。於是眾軍戒嚴,劉牢之共衛將軍謝琰討之。賊等禁令不行,肆意殺戮,士庶死者不可勝計,或醢諸縣令以食其妻子,不肯者輒支解之,其虐如此。

司馬德宗のときから、内外の統制は2つに分裂した。石頭以外の、荊州や江州など、長江の西側の地域は、豫州から命令を受けた。京口から長江の北側の地域は、兗州刺史の劉牢之らが取り仕切った。司馬德宗の政令は行き届いたのは、ただ三呉(呉郡、会稽、呉興)のみだった。

五胡十六国のノリで、分裂した勢力地図を描くなら、東晋を3つに色分けすると良い。『魏書』が言った三呉のエリアだけが、司馬氏の領土で、それ以外は別の国である。
肥水の戦いの後、東晋も分裂した。赤壁後、南北の国境が固まったのとは、正反対だ。再び縫い合わせたのは、北魏と劉宋だ。

孫恩が乱を起こすと、八郡はことごとく賊の勢力圏になった。丹陽郡の諸縣で蜂起があると、建業は転じて蹙弱に成った。妖惑の徒は、多くが都邑に潛んだ。人情は危懼し、討伐軍が都邑に潜んだ孫恩軍を討ちにきて、自分たちも被害を受けるのではないかと心配した。
東晋軍は戒嚴した。劉牢之は、衛將軍の謝琰とともに、孫恩を討った。賊らは、禁令が行き届かず、意のままに殺戮した。士人や庶民の死者は、数え切れないほどだった。孫恩たちは、諸縣令を塩漬けにして、それを妻子に食べさせた。夫や父の肉を食べることを拒めば、支解した。孫恩の残虐さは、このありさまだった。

北府が東晋のために戦っている。外敵があって初めて、結束もするのでしょう。「支解」って何だろう。字は易しいのに・・・


驃騎長史王平之死未葬,恩剖棺焚屍,以其頭為穢器。牢之率軍討破之。琰將至吳興,賊徒遁走,驅逼士庶,奔于山陰。諸妖亂之家,婦女尤甚,未得去者,皆盛飾嬰兒投之于水而告之曰:「賀汝先登仙堂,我尋複就汝也。」賊既走散,邑屋焚毀,郛郭之中,時見人跡,經月乃漸有歸者。

驃騎長史の王平之が死んだが、まだ葬られていなかった。孫恩は、棺を暴いて死体を焼いた。孫恩は、王平之の頭蓋骨を「穢器」にした。

東晋にとって不名誉な歴史が、『魏書』の好物。
それ見ろ、王朝としての正統なんか、ないじゃないか!と。

劉牢之は、孫恩を討伐した。謝琰の將が呉興に到ると、賊徒は遁走した。孫恩は、士庶を強制的に連れて、山陰に逃げた。妖亂に参加した家には、婦女がとても多かった。妖乱に参加していない人は、みな盛んに嬰兒を飾り、水中に沈めて言った。
「汝が先に仙堂に登るのを賀す。我は尋ねて複た汝に就くなり」

嬰児のあんたは、挙兵の足手まといよ。先に天国に行きなさい。
(子が死ぬと)あら良かったわね、登仙できて。私もすぐ後を追うわ。

孫恩の群衆が逃げ散ったあと、邑屋は焚毀された。郛郭の中に、人がいた形跡があった。月をまたいで、ようやく東晋に助けを求めて、隠れ場所から出てくる人がいた。

謝琰留屯烏程,遣其將高素助牢之。牢之率眾軍濟江。初,孫恩聞八郡回應也,告諸官屬曰:「天下無複事矣,當與諸君朝服而至建業。」既聞牢之臨江,複曰:「我割據浙江,不失作勾踐也。」尋知牢之已濟,乃曰:「孤不恥走。」於是乃走。緣道多遺珍寶,牢之將士爭取之,不得窮追。恩複入於海。初,三吳困於虐亂,皆企望牢之、高素等。既至,放肆抄暴,百姓咸怨毒失望焉。

謝琰は烏程に駐屯した。謝琰は、部將の高素を送って、劉牢之を助けさせた。劉牢之は、軍を率いて濟水や長江のあたりにいた。
はじめ孫恩は、八郡が自分に従ったと聞いた。孫恩は、配下の諸官屬に言った。
東晋に、天下がもう従うことはない。諸君たちと朝服を着て、建業に行こう。孫恩さまの王朝を、新しく建ててやるぞ」
孫恩は、劉牢之が長江まで南下したと聞いて、言った。
「私は、浙江を切り取って割拠しよう。勾踐の国(越)を失うな」孫恩は、劉牢之がすでに濟水を渡ったと聞いた。孫恩は言った。
孤(王侯の一人称)は、逃げるのを恥じない」
孫恩は、逃げた。逃げ道に珍寶をバラ撒いたので、劉牢之の將士は争って拾った。孫恩は、追手を逃れた。

顔良だか文醜だかと同じだ。東晋の軍律の弱さが示された。

孫恩は、海に逃げた。はじめ、東晋が治める三呉は、孫恩の虐亂に苦しんだ。みな劉牢之や高素に企望した。劉牢之が勝つと、放肆抄暴したから、百姓はみな毒を怨み、失望した。

庶民にとって、孫恩も劉牢之も、盗賊に過ぎない。劉牢之にして見れば、手当ての付かない出張に付き合ったのだから、戦利品を獲なければね。外圧が去れば、劉牢之は、東晋の臣ではなく、独立した軍閥に戻る。三呉は、劉牢之の領土ではない。東晋の領土だ。どれだけ住民が困ろうが、他人事だ。