4)王敦の屍を暴いた明帝
司馬睿が死に、子の司馬紹の時代。
ところで、、
司馬懿(宣帝)と司馬瑋(楚王)、司馬師(景帝)と司馬熾(懐帝)、司馬頴(成都王)と司馬睿(元帝)、司馬昭(文帝)と司馬紹(明帝)、司馬炎(武帝)と司馬衍(成帝)、司馬攸(斉王)と司馬肜(梁王)、司馬亮(汝南王)と司馬陵(任城王)、司馬顒(河間王)と司馬鄴(愍帝)、、短期間に出現した重要人物で、日本語の音読みで、音カブリが多すぎる!なんだこの一族は。
だからファンが付かないんだよ!と叫んでおきたい。
王敦さまさま、明帝の腰抜け
王敦將纂,諷紹征己。乃為書曰:「孤子紹頓首。天下事大,紹以眇身,弗克負荷,哀憂孔疚,如臨于谷,實賴塚宰,以濟艱難。公邁德樹勳,遐邇歸懷,任社稷之托,居總己之統,然道裏長遠,江川阻深,動有介石之機,而迴旋之間,固以有所喪矣。謂公宜入輔朝政,得旦夕詶諮,朝士亦僉以為然。以公高亮忠肅,至心憂國,苟其宜然,便當以至公處之,期於靜國寧民,要之括囊無咎。伏想暗同此志,願便速克近期,以副堯企之懷。」司馬紹恭憚於敦若此。
王敦が、ちかぢか簒逆するらしいと、司馬紹の耳に入った。司馬紹は、王敦に書状を書いた。
「父を失い、孤児になった司馬紹より、申し上げます。皇帝の仕事は大変なのに、私はその重荷に耐えられません。王敦どのは、人徳も勲功もすばらしく、万人が懐いています。王敦どの、どうか万民をお治め下さい。揚州は江川が入り組んでおり、支配が行き届いておりません。どうか東晋を輔政して下さい。ただ朝廷で意見を述べるだけじゃなく、主催者として治めてください。私はバカです。王敦どのに頼るしかありません」
司馬紹が、王敦を恭しく憚かるのは、こんな感じだった。
『晋書』のベールを剥げば、若年の敗北者と、強力な名門貴族がいるだけ。
複使兼太常應詹拜敦承相、武昌郡公,奏事不名,入朝不趨,劍履上殿。敦於是屯於蕪湖。敦乃轉王導為司徒,自領揚州刺史,以兄含子應為武衛將軍,以自副貳。敦無子,養應為後。敦疾逾年,故召含還,欲屬以後事。是時敦令紹宿衛之兵三番休二。紹密欲襲敦,微行察敦營壘。及敦疾,紹屢遣大臣訊問起居,遷含驃騎大將軍、儀同三司。
兼太常の應詹が使いして、王敦を丞相とした。王敦は武昌郡公となり、奏事不名、入朝不趨、劍履上殿の特権を手に入れた。
王敦は、蕪湖に駐屯した。
王敦は、従弟の王導を司徒にして、揚州刺史を領ねさせた。王敦は、兄・王含の子である王應を、武衛將軍にして自分の補佐にした。
王敦には子がいないので、王應を養子にして、後継とした。
王敦の病気が、いよいよ重くなった。王敦は、兄の王含を戻らせて、後事を託そうとした。死にかけの王敦は、皇帝の司馬紹に泊り込みで守らせ、兵は3人が当番で2人が休みという割合だった。
司馬紹は、密かに王敦を襲いたいと考え、こっそり営塁を偵察した。王敦が病気なので、司馬紹はしばしば大臣に、王敦の病状を聞きに行かせた。
王敦の兄・王含は、驃騎大將軍、儀同三司となった。
「明帝のどこが皇帝か」
敦疾甚,紹召其司徒王導、中書監庚亮、丹陽尹溫嶠、尚書卞壺密謀討之。導、嶠及右將軍卞敦共據石頭,光祿勳應詹都督朱雀桁南諸軍事,尚書令郗鑒都督從駕諸軍事,紹出次於中堂。敦聞兵起,怒,欲自將,困不能坐。召其党錢鳳、鄧岳、周撫等率眾三萬指造建業。含謂敦曰:「北事吾便當行。」於是以含為元帥。鳳等問敦曰:「事克之日,天子雲何?」敦曰:「尚未南郊,何為天子!便盡卿兵勢,唯保護東海王及裴妃而已。」
王敦の病が重篤になると、司馬紹は、司徒の王導、中書監の庚亮、丹陽尹の温嶠、尚書の卞壺らを召して、密かに王敦を討つ相談をした。
王導と温嶠および右將軍の卞敦は、ともに石頭城に拠った。
光祿勳の應詹は、都督朱雀桁南諸軍事となった。尚書令の郗鑒都督從駕諸軍事となった。司馬紹は出でて、中堂に入った。
王敦は、司馬紹が兵を起こしたと聞いて怒り、自ら兵を率いたかったが、座ることすら出来なかった。王敦は、郎党の錢鳳、鄧岳、周撫らに、3万を率いさせて、建業を目指した。兄の王含は、王敦に言った。
「東晋の北方を根城とする軍閥(のちの北府)との戦いには、私が行こう」
このセリフにより、王含は元帥となった。郎党の錢鳳らは、王敦に問うた。
「もし私たちが勝てば、天子はどう言うでしょうね」
王敦は言った。
「司馬紹は、まだ南郊で祭祀をやってない。どうして司馬紹が、天子であるものか。お前たちは軍勢を率いて、ただ東海王と、妃の裴氏を保護すればいいんだよ」
東海王は西晋の司馬越の子・司馬毗、裴氏は司馬越の妃か。王敦は、司馬睿の系統が皇帝になることを認めていない。八王の乱が未収束という立場かな。
ちなみに司馬毗は、石勒に攻められて生死が不明である。
初,紹謂敦已死,故敢發兵。及下詔數日,敦猶能與王導書,後自手筆曰:「太真別來幾日,作如此事!」太真,溫嶠字也,紹朝見之,鹹共駭懼。含等兵至,溫嶠輒燒朱雀桁以挫其鋒。紹使中軍司馬曹渾、左衛參軍陳嵩、段匹磾弟禿率壯士千人逆含等,戰于江寧,斬其前鋒將何康,殺數百人。
はじめ司馬紹は、王敦がすでに死んだと思って、敢えて兵を発した。
司馬紹が挙兵を詔して数日、王敦はまだ筆記ができた。王敦は、王導に直筆の書状を渡した。
「太真が、用もないのに幾日か来ていた。この挙兵のためだったか」
太真とは、温嶠のあざなである。
司馬紹は、温嶠に朝見させ、しばしば2人でともに王敦を懼れた。
王含らの兵が到ると、温嶠は朱雀桁を焼いて、王敦軍の先鋒の勢いを挫いた。司馬紹は、中軍司馬の曹渾、左衛參軍の陳嵩、段匹磾の弟・段禿に、壯士1000人を率いさせ、王含らを迎撃した。
合戦は、江寧で起きた。司馬紹は、王敦軍の前鋒の将・何康を斬り、王敦の兵、数百人を殺した。
敦聞康死,軍不獲濟,怒曰:「我兄老婢耳!門戶衰微,群從中才兼文武者皆早死,今年事去矣。」語參軍呂寶曰:「我當力行。」因作勢而起,困乏,乃複臥。使術士郭璞筮之,卦成,對曰:「不能佳。」敦既疑璞勸亮、嶠等舉事,又聞卦惡,於是殺璞。
王敦は、何康が死んで、軍を救えなかったと聞くと、怒って言った。
「私の兄(王含)は、奴隷の老女レベルの働きしか出来ない。王氏の門戸は衰微し、文武の才能のある人が、みな早く死んだ。今年、王氏が天下を取るチャンスが去るだろう」
王敦は、參軍の呂寶に語った。
「私が指揮を取ろう」
王敦は勢いをつけ、立ち上がった。だが体力が失われていて、ふたたび横たわった。
王敦は、術士の郭璞に、王氏の未来を占わせた。卦が成った。郭璞は、
「王氏を祝福することができません」
と答えた。王敦は、郭璞の占いの腕を疑っていた。温嶠らが挙兵したとき、郭璞が不吉な卦を出したのを憎んだ。王敦は、郭璞を殺した。
ところで、東晋をよく支えた従弟の王導の活躍は、ほとんど描かれないんですね。王導を強調すれば、東晋は正統になる。王敦を強調すれば、その逆。分かりやすい仕組みだ。
王敦の死、司馬紹の死
敦疾轉困,語其舅羊鑒及子應曰:「我亡後,應便即位,先立朝廷百官,然後營葬。」初敦敗叡之後,夢白犬自天而下,噬之。及疾甚,見刁協、甘卓為崇,遂死。王應秘不發喪,裹屍以席,埋於齋中,與其將諸葛瑤等縱酒淫逸。沈充將萬餘人來會含等。充臨行,顧謂其妻曰:「男兒不建豹尾,不能歸也。」紹平西將軍祖約率眾至於淮南,逐敦所置淮南太守任台。紹將劉遐、蘇峻濟自滿洲,含相率渡兵,應詹逆擊,大破之。周撫斬錢鳳,沈充將吳儒斬充。紹遣禦史劉彝發敦瘞,斬屍,梟首朱雀桁。
王敦は、危篤になった。王敦は、舅の羊鑒と、その子の羊應に言った。
「私が死んだら、司馬紹の即位を認めよ。朝廷に百官を立て、東晋の体制を整えてから、私の葬儀を営め」
はじめ王敦が司馬睿を破ったあと、夢を見た。白い犬が、天から落ちる夢だった。夢占いをさせた。
王敦は病気が重くなると、刁協と甘卓に祟られて、ついに死んだ。甥の王應は、王敦の死を隠して、喪を発しなかった。王應は席に死体を隠して、齋中に埋葬した。王應は、その将の諸葛瑤らとともに、酒を飲み、淫逸した。
王敦の将・沈充は、萬餘人を率いて、王含らと合流した。沈充が出発するとき、妻に言った。
「男子が豹尾を建てず(高官になりそびれた)。もう帰れないよ」
司馬紹の平西將軍・祖約は、兵を率いて淮南に到った。祖約は、王敦が任命した、淮南太守の任台を放逐した。司馬紹の將・劉遐、蘇峻は、滿洲から済水に進軍した。王含は兵を率いて、済水を渡らせた。
應詹は、司馬紹の軍を迎撃して、大いに破った。周撫は、錢鳳を斬った。沈充の將・呉儒は、主人の沈充を斬った。
司馬紹は、禦史の劉彝に王敦の陵墓を暴かせた。王敦の死体を斬り、首を朱雀桁に晒した。
司馬紹のやり方が、いかにも非難を受けるであろう筆体で書いてある。
紹死,子衍僭立,號年曰鹹和。
司馬紹が死に、子の司馬衍が僭立した。年号を鹹和とした。