表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

12)桓玄の次は、劉裕

桓玄に簒逆されたが、辛うじて復活した東晋ですが・・・

劉裕が東晋を奪う

永興二年,盧循複起於嶺南,殺德宗江州刺史何無忌於石城。咸欲以德宗北走,知循未下乃止。裕令撫軍劉毅討循,敗于桑落洲,步走而還。裕党孟昶、諸葛長民等勸裕擁德宗過江,裕不從。

永興二年、盧循はふたたび嶺南で挙兵した。
盧循は、江州刺史の何無忌を、石城で殺した。東晋の人は、みな司馬德宗に北方に逃げるべきだと考えた。だが、盧循が進軍してこないので、東晋の人たちは逃げるのを見合わせた。
劉裕は、撫軍の劉毅に盧循を討伐させたが、桑落洲で敗れた。劉毅は、徒歩で逃げ帰った。劉裕の与党の孟昶、諸葛長民らは、
「司馬徳宗を連れて、長江の北へ渡るべきです」
と劉裕に勧めた。劉裕は、聞き入れなかった。

神瑞二年,德宗遣廣武將軍玄文、石齊朝貢。太宗初,劉裕征姚泓。二年,太宗遣長孫道生、娥清破其將朱超石于石河,擒騎將楊豐,斬首千七百餘級。

神瑞二年、司馬德宗は、廣武將軍の玄文と石齊を遣わし、北魏に朝貢した。太宗の初め、劉裕は姚泓を征伐した。二年、太宗は長孫道生と娥清を遣り、東晋の將の朱超石を石河で破った。騎將の楊豐を捕え、斬首千七百餘級。

三年,德宗死,弟德文僭立。四年,改年曰元熙五年,德文禪位於裕,裕封德文為零陵王。德文後河南褚氏,兄季之、弟淡之雖德文姻戚,而盡心於裕。德文每生男,輒令方便殺焉。惑誘內人,密加毒害,前後非一。及德文被廢,囚于秣陵宮,常懼見禍,與褚氏共止一室,慮有鴆毒,自煮食於前。六年,劉裕將殺之,不欲遣人入內,令淡之兄弟視褚氏,褚氏出別宮,於是兵乃逾垣而入,進藥於德文。德文不肯飲,曰:「佛教,自殺者不復人身。」乃以被掩殺之。

三年、司馬德宗が死んだ。弟の司馬德文が僭立した(恭帝)。
四年、年号を改めて元熙五年となった。司馬德文は、劉裕に禪位した。劉裕は、司馬德文を零陵王に封じた。司馬德文の皇后・河南郡の褚氏と、兄の褚季之、弟の褚淡之は、司馬德文の姻戚だった。だが褚氏の兄弟たちは、司馬徳文を裏切り、劉裕に忠誠を誓った。
德文に男子が生まれるごとに、褚兄弟はすぐに殺させた。後宮の人を誘い惑わし、褚兄弟が密かに毒害を加えた人は、決して少なくはなかった。
司馬徳文は帝位から廃されると、秣陵宮に囚えられた。司馬徳文は、つねに禍いを受けることを懼れた。司馬徳文と褚皇后は、同じ部屋にとどまった。鴆毒を盛られること心配し、出された料理を、食べる前に自分で煮た。
六年、劉裕は司馬徳文を殺そうと思い、人払いをした。褚淡之の兄弟に、褚皇后を連れ出させた。劉裕の兵は、生垣を越えて、司馬徳文にクスリを飲めと勧めた。司馬徳文は、断って言った。
「私の信じている仏教では、自殺した人は、ふたたびヒトに転生できない
兵たちは、司馬徳文を殴り殺した。

自叡之僭江南,至於德文之死,君弱臣強,不相羈制,賞罰號令,皆出權寵,危亡廢奪,釁故相尋,所謂夷狄之有君,不若諸夏之亡也。

司馬睿が江南で晋帝を僭称してから、司馬德文が死ぬまで、君主が弱くて、臣下が強かった。君臣は協調しなかった。賞罰や號令は、皇帝ではなく、みな權寵な臣下から出た。東晋が滅亡する危機や、桓玄や劉裕による簒奪は、君主権の弱さが原因だ。
「夷狄の君主がいることは、諸夏(中原)の王朝が滅亡することに及ばない。夷狄の君主を頂くくらいなら、中原で亡乱してる方がマシである
とは、東晋のことを言ったことだ。

五胡十六国を正当化した表現です。訳し方が難しいが。
東晋は臣下が強かったが、司馬氏は長く保たれた。華北は、臣下より君主が強かったが、王朝の興亡が頻繁だった。親兄弟が殺しあった。東晋の方が、華北より文化的に見える。
北魏は華北の勝者だから、これを逆転するロジックを必要としたのです。『魏書』がちょっと詭弁くさく見える・・・死んだらどうにもならんし(笑)

訳後の感想

『魏書』は、『晋書』よりも真実を伝えている気がする。
理由は2つです。
まず成立時期の古さ。手垢がベタベタに付き、編集につぐ編集で、孫引きになっている『晋書』よりも、遥かに生の声を感じることが出来ると思う。
つぎに、辺境の王朝であると東晋をさげすむ姿勢。北魏が正統かどうか、それは別に考えねばならない。だが少なくとも、東晋に正統を見出さない叙述スタイルは、とても共感できるものでした。
今回の列伝は、東晋の君主権力の弱さ、王朝としての実態のなさが、『魏書』のアピールポイントでした。ちょっと行き過ぎた感もあるけれど、実態はこんなものではなかったか。
『晋書』が、レトリックで東晋皇帝に求心力を持たせてしまうから、見えなくなっているものが、多く炙り出されていなかったか。
面白いね、『魏書』。つぎは、「島夷桓玄」を読みたいなあ。090903