表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

6)蘇峻の死、桓温の北伐

東晋の君主権力の弱さを、蘇峻と司馬衍で味わって下さい。
『晋書』との異同を調べないと面白さは半減なんだが、とりあえずは『魏書』を読み終えることを優先します。 

良将なき東晋軍の勝利

嶠食盡,貸于陶侃。侃怒曰:「使君前雲不憂無士眾及糧食也,唯欲得老民為主耳。今比戰皆北,良將安在?今若無食,民便欲西歸。」先是嶠慮侃不赴,故以甘言招侃。嶠乃卑辭謝之,且曰:「今者,騎虎之勢可得下乎?賊垂滅,願公留思。」侃怒少止。其將李陽說曰:「今事若不捷,雖有粟,焉得而食之。公宜割見儲,以卒大事。」乃以米五萬石供軍。

温嶠は兵糧を食べつくして、陶侃に食料を借りた。陶侃は怒った。
「あなたは以前に言ったはずだ。配下の兵は、糧食の心配などしない。ただ老民たちを助ける、正義の君主が欲しいだけなのだ、と。

温嶠は、東晋復興の理想に燃えている。陶侃に参戦してもらうために、現実離れした極論を話したらしい。

最近の戦闘は、建康の北で行なわれている。しかし東晋方に良將はいるのか?もし食料が尽きれば、私の民は西に帰ろうとするぞ」

温嶠に食料を貸しても、返却の宛てがない。プレゼントするに等しい。東晋のために、勝ち目のない戦さをするくらいなら、オレは根拠地の西(荊州)に帰るぞ。陶侃の脅し&皮肉だ。

これより先、温嶠は、陶侃が兵を出してくれないことを心配して、甘い希望的観測を述べて、陶侃を招いた。温嶠は、陶侃にペコペコ謝った。
温嶠は言った。
「いま蘇峻が持っている騎虎之勢を、下すことが出来ますか。蘇峻を野放しにすることは、(東晋ではなく)陶侃さん自身にとっても、脅威となるはずです。蘇峻を滅しましょう。どうかお考え直し下さい」
陶侃は怒りを少し収めた。陶侃の将の李陽が、陶侃に説いた。
「もし蘇峻に勝てなければ、たとえ粟があっても、食べられなくなります。陶侃さまは、どうか温嶠に兵糧を分け与え、兵を助けてやって下さい」
陶侃は米50000石を、東晋軍に提供した。

のちの西府の母胎が、陶侃です。『魏書』向きの、いいキャラぶりを発揮しています。決して東晋のためには動かない。


祖渙襲湓口,欲以沮溫嶠之兵。渙過皖,攻譙國內史桓雲,不克,乃還。蘇峻並兵攻大業,大業水竭,皆飲糞汁。諸將謀救之,慮不能當,且欲水陸攻峻。陶侃以舟師攻石頭,溫嶠、庾亮陳于白石。峻子碩以數十騎出戰,峻見碩騎,乃舍其眾,自以四馬北下突陳,陳堅乃還。軍士彭世、李千投之以矛,峻墜馬,遂梟首,臠割之,焚其骸骨。任讓及諸賊帥複立峻弟逸,救峻屍弗獲,乃發衍父母塚,剖棺焚屍。匡術率其徒據苑城以降,韓光、蘇碩等率眾攻苑,苑中饑,谷石四萬。諸將攻石頭。蘇碩及章武王世子休率勁賊孔盧、張偏等數十人擊李陽於且浦,退走,碩等追之,庾冰司馬滕含以銳卒自後擊之,碩、逸等震潰,奔于曲阿。含入抱衍,始得出奔溫嶠之舟。

祖渙は湓口を襲い、温嶠の兵を挫こうとした。祖渙は皖城を過ぎ、譙國內史の桓雲を攻めたが勝てず、撤退した。蘇峻は、大業を攻めた。大業は飲み水がなくなり、みな糞汁を飲んだ。東晋の諸將は、大業を救おうとしたが、失敗することを心配しつつ、水陸の両方から蘇峻を攻めた。
陶侃以舟師攻石頭,溫嶠、庾亮陳于白石。峻子碩以數十騎出戰,峻見碩騎,乃舍其眾,自以四馬北下突陳,陳堅乃還。
兵士の彭世、李千は、矛を投げた。蘇峻が馬から堕ち、梟首された。蘇峻の肉は裂かれ、骸骨は焼かれた。任讓および蘇峻の残党は、弟の蘇逸を盟主にした。蘇峻の屍体を取り戻そうとした。蘇逸は報復として、司馬衍の父母の塚を暴いて、棺を開いて、屍体を焼いた。

泥沼の憎しみあいだ。これが実話なら、五胡が華北で節操なく殺しあったのと、文化レベルが同じということになる。『魏書』の思惑は明白だ。

匡術率其徒據苑城以降,韓光、蘇碩等率眾攻苑,苑中饑,谷石四萬。諸將攻石頭。蘇碩及章武王世子休率勁賊孔盧、張偏等數十人擊李陽於且浦,退走,碩等追之,庾冰司馬滕含以銳卒自後擊之,碩、逸等震潰,奔于曲阿。含入抱衍,始得出奔溫嶠之舟。

手抜きしましたが、東晋が攻勢に転じています。司馬衍が脱出できた。


司馬衍の死、司馬岳の死

是時,兵破之後,宮室灰燼,議欲遷移,王導不從乃止。衍改年咸康。

このとき、戦乱で宮室が灰燼となった。遷都が議論されたが、王導が反対したので、中止された。司馬衍は、「咸康」と改元した。

建國中,衍死。中書監庾冰廢衍子千齡,立其弟岳,改年曰建元。初嶽之立,當改元,庾冰立號,而晉初已有,改作,又如之,乃為建元。頃之,或告冰曰:「子作年號,乃不視讖也。讖雲:'建元之末丘山崩。'丘山,嶽也。」冰瞿然,久而歎曰:「如有吉凶,豈改易所能救乎?」遂不復改。

建國年間に、司馬衍が死んだ。

建國は、北魏の年号なのか。東晋にはない。それとも「国家の再建中に」というただの文章なのか?

中書監の庾冰には、司馬衍の子・司馬千齡を廃して、弟の司馬岳を皇帝に立てた。

『晋書』では、皇帝権力を強化するために、弟が選ばれたことになっている。だが『魏書』は「廃す」と書いた。『春秋』のやり方は、すごいなあ。

年が改まり、「建元」と改元した。
はじめ司馬岳を皇帝に立てたとき、庾冰は年号の案を作ったが、晋の過去の年号とカブったので、「建元」が採用となった。
このころ、ある人が庾冰に告げた。
「あなたは年号を作るとき、図讖を見なかったのですね。図讖に、『建元の末に、丘山が崩れる』と出ています。丘山とは、『嶽』のことだ。もし『建元』の年号を採用すれば、皇帝の司馬岳さまが死にますよ
庾冰は瞿然とした。だいぶ経ってから、歎じて言った。
「物事に吉と凶があるように、年号だけイジッたところで、東晋皇帝を救えるものだろうか
ついに年号を改めなかった。

わざわざ庾冰に、東晋を見限る発言をさせるのが、『魏書』のやり方だ。


嶽死,庾冰欲立司馬昱。驃騎將軍何充立嶽子聃,號年曰永和。

司馬岳が死ぬと、庾冰は司馬昱を皇帝にしたいと思った。

司馬昱は司馬睿の子で、もう大人である。

驃騎將軍の何充は、司馬岳の子・司馬聃を皇帝に立てた。

穆帝です。

年号を永和とした。

次の強敵役は、桓温

聃安西將軍桓溫率所統七千餘人伐蜀,拜表輒行。聃威力微弱,不能控制也。

安西將軍の桓温は、7000余人を率いて、蜀を討伐しようとした。桓温は討伐を上表し、ただちに出発した。司馬聃は権威が微弱なので、桓温は皇帝の返答を待たずに、出発した。

成漢を滅ぼした手柄は、司馬聃ではなく、ひとり桓温に帰属する。『魏書』は、出発時のやり取りから、これを明らかにしておきたかった。わざわざ「微弱」とか言わんでも・・・。


及石虎死,聃征北將軍褚裒以舟軍至下邳,西中郎將陳逵進據淮南。石遵聞裒至下邳,使其司空李農領萬餘騎逆圍督護王龕于薛,執龕送於鄴,又殺李邁。龕,裒之驍將,三軍喪氣,乃引還。陳逵聞之,震懼,焚淮南而走。

後趙で石虎が死ぬと、征北將軍の褚裒の水軍は、下邳に到った。西中郎將の陳逵は、進んで淮南に拠った。後趙の石遵は、褚褒が下邳に到ったと聞き、司空の李農に、萬餘騎を率いさせて、褚褒の督護・王龕を、薛で逆に包囲した。王龕を捕えて鄴に送り、また李邁を殺した。王龕は、褚褒の驍將だった。褚褒の三軍は、王龕が殺されたと聞いて、喪氣して引き返した。陳逵が、褚褒の撤退を聞き、震懼して、淮南を焼いて逃げた。

桓溫表廢聃揚州刺史殷浩,聃憚溫,乃除其名。溫遂率所統諸軍步騎四萬自郢越關中至灞上。苻健與五十佘人守長安小城,是歲大儉溫軍。人懸磬,健深溝,堅壁清野,待溫溫軍,食盡乃退。苻健遣子萇頻擊敗之。初,溫次灞上,其部將振武將軍、順陽太守薛珍勸溫徑進逼城,溫弗從,珍以偏師獨濟,頗有所獲。溫退,珍乃還,放言於眾,且矜其銳而咎溫之持重。溫慚忿,殺之。聃又改年曰升平。

桓温は上表して、揚州刺史の殷浩を廃せと言った。司馬聃は桓温に憚り、殷浩をクビにした。
桓温は、歩騎4万を率いて、郢越(荊州)關中から、灞上に到った。苻健は、50余人とともに、長安を守っていた。苻堅は、桓温の大軍がくると聞いて、岩を積み、溝を掘って、堅壁清野の計を用いて、桓温の軍を待ち受けた。

堅壁清野は、『三国志』で劉璋が拒んだ作戦である。食料も物資も人口も、すべて空っぽにする。攻めてきた軍は、現地調達が出来ずに、撤退していく。

桓温は、兵糧が尽きて、撤退した。
苻健は、子の苻萇にしきりに追撃させ、桓温を破った。
はじめ桓温が灞上に入ったとき、桓温の部將で振武將軍・順陽太守の薛珍は、桓温に、徑進逼城しなさいと提案した。桓温は却下した。薛珍の軍だけが、苻萇の追撃から助かった。撤退した後に薛珍は、
「それ見たことか。桓温さんは私の言うとおりにすべきだった」
と兵士たちに触れ回った。桓温は慚忿し、薛珍を殺した。

成漢を滅ぼし、東晋皇帝より強い桓温。でも、五胡の手にかかれば、愚かな司令官でしかないよと、『魏書』は言いたいのかなあ。
『晋書』なら、長安攻略には失敗したものの、桓温が洛陽で皇帝の陵墓を修復したことが、華々しく謳われるのだが。『魏書』では無視のようで。

司馬聃は、年が改まると、「升平」と改元した。

次回、桓温の簒奪が見られるかも?