表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

3)王敦にビビり死んだ司馬睿

東晋が、いかに王朝としての実態がないかを、『魏書』が浮かび上がらせます。具体的には、王敦を大活躍させて、司馬睿の弱さを強調します。

帝王神話を壊した、王敦

是時叡大將軍王敦宗族擅勢,權重於叡,迭為上下,了無君臣之分。叡侍中劉隗言於叡曰:「王氏強大,宜漸抑損。」敦聞而惡之。惠帝時,叡改年曰永昌。昌敦先鎮武昌,乃表於叡曰:「劉隗前在門下,遂秉權寵。今輒進軍,指討奸孽,宜速斬隗首,以謝遠近。朝梟隗首,諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典,顛覆厥度,幸納伊尹之訓,殷道複昌,頗智故有先失後得者矣。」敦又移告州郡,以沈充為大都督,護東吳諸軍。

このとき東晋の大将軍・王敦の宗族は、権勢をほしいままにした。司馬睿より王敦が強くて、君臣の分別が逆転した。東晋の侍中・劉隗が、司馬睿に言った。
「王敦の一族は兄弟です。ジワジワと、力を抑えるべきです」
王敦はこれを聞き、劉隗を憎んだ。
代の恵帝のとき、司馬睿は年号を「永昌」と改めた。王敦は武昌に出鎮している。王敦は、司馬睿に上表した。
「劉隗は、調子に乗っています。速やかに劉隗の首を斬って、天下に謝罪すべきです。さもなくば、私が司馬睿さんを攻めます。劉隗を斬れば、軍は引き上げます。むかし殷の太甲は、湯王の教えを忘れて、国を滅ぼしそうになりました。しかし幸いにも、伊尹のアドバイスを聞いたので、殷は保たれました。殷の先例を、よく参考になさいますよう」

王敦は、自分が伊尹だと言った。『魏書』は、東晋の君主権力の弱さを、指弾したい。だから、王敦の言動がクローズアップして語られる。

王敦は、州軍に触れ回った。王敦は、沈充を大都督、護東呉諸軍とした。

叡乃下書曰:「王孰恃寵,敢肆狂逆,方朕於太甲,欲見囚于桐宮。是可忍也,孰不可忍也!今當親帥六軍,以誅大逆。」叡光祿勳王含率其子瑜以輕舟棄叡,歸於武昌。叡以其司空王導為前鋒大都督,尚書陸曄為軍司;以廣州刺史陶侃為江州,梁州刺史甘卓為荊州,使其率眾掎躡敦後;以太子右率周莚率中軍三千人討沈充。敦至洌州,表尚書令刁協党附,宜加誅戮。叡遣右將軍周劄戍於石頭,劄潛與敦書,許軍至為應。敦使司馬楊朗等入於石頭,劄見敦。朗等既據石頭,叡征西將軍戴淵、鎮北將軍劉隗率眾攻之,戴淵親率士,鼓眾陵城。俄而鼓止息,朗等乘之,叡軍敗績。隗、協入見叡,叡遣其避禍,二人泣而出。隗還淮陰,後奔石勒。協奔江乘,為敦追兵所害。叡師敗。

司馬睿は、書を下した。
「王敦は、力が強いのをいいことに、狂逆した。私は殷の太甲のように、桐宮に囚えられようとしている。この屈辱を、我慢できるわけがない。6軍を率いて親征し、王逆を誅そう」
東晋の光祿勳の王含は、子の王瑜を率い、司馬睿を見捨てて、快速舟で武昌の王敦に味方した。
司馬睿は、司空の王導を前鋒大都督とし、尚書の陸曄を軍司とした。廣州刺史の陶侃を江州に移し、梁州刺史の甘卓を荊州刺史に移した。

戦争の経緯は中略します。見れば分かるので。

司馬睿の軍は、王敦に敗れた。司馬睿の側近、劉隗と刁協は、司馬睿に会った。司馬睿は、2人を助けるために、退出させた。2人は泣きながら、司馬睿から去った。劉隗は淮陰に戻り、のちに石勒を頼った。刁協は江乘に逃げたが、王敦に殺害された。東晋皇帝の敗北である。

『魏書』は、司馬睿の帝王神話を、完全に打ち壊した。血筋がウソで、他人の混乱に乗じる小人物で、人が住めないような辺境の揚州に割拠し、強い臣下に敗戦した。晋帝の資格は、もちろんない。
ただし、『晋書』と『魏書』は、事実ベースでは大枠で同じだ。
『晋書』の本紀から、輝かしい詔勅や上疏を取り除き、動詞に使う漢字を『春秋』のテクニックで変更するだけで、かくも読者に与える印象が違うのか・・・

王敦の強さ、たたみかけ

敦自為丞相,武昌郡公,邑萬戶,朝事大小皆關諮之。敦收戴淵及叡尚書左僕射周顗,並斬於石頭,皆叡朝之望也。於是改易百官及諸州鎮,其餘轉徙黜免者過百數,或朝行暮改,或百日半年。敦所寵沈充、錢鳳等所言必用,所譖必死。

王敦は自ら、丞相、武昌郡公となり、邑萬戸。朝廷の大小のテーマは、全て王敦に伺いが立てられた。王敦は、戴淵を捕えた。王敦は、戴淵と、司馬睿の尚書左僕射・周顗を、石頭城で斬った。斬られたのは、みな司馬睿に味方した人である。
王敦は、百官や諸州鎮の人事を変更した。左遷やクビになった人は、100人を越えた。王敦の朝廷は、朝令暮改だった。そこまでコロコロ変わらなくとも、100日や半年単位では、命令が変更された。
王敦は、沈充や錢鳳らを寵用した。王敦は、沈充や錢鳳の言うことは必ず聞いた。沈充や錢鳳にそしられた人は、必ず王敦に殺された。

敦將還武昌,其長史謝鯤曰:「公不朝,懼天下私議。」敦曰:「君能保無變乎?」對曰:「鯤近入覲,主上側席待公,遲得相見,宮省穆然,必然不虞之慮。公若入朝,鯤請侍從。」敦曰:「正複殺君等數百,何損朝廷!」遂不朝而去。

王敦が建康で好きに振る舞い、本拠の武昌に帰ろうとした。王敦の長史・謝鯤が言った。
「王敦さまが朝廷を離れたら、反対派が動き出すのが心配です」
王敦は言った。
「私は、武昌に戻るのだ。キミを朝廷に残していく。キミに任せても、反対派を押さえ込めないのか
「はい。先日私は朝廷の会議で、司馬睿さまのそばに座り、王敦さまの到着を待っていました。王敦さまが遅れて登場すると、会議の空気がシーンとなりました。王敦さまへの反発が、根強いのです。必ずクーデターが起きます。王敦さまは、朝廷に残って下さい」
「キミのような無能な部下を数百人殺しても、べつに朝廷(私)には1ミリの損失にもならんのだぞ」
王敦は、朝廷に参内せず、武昌に去った。

敦召安南將軍甘卓,轉譙王承為軍司,並不從。敦遣從母弟南蠻校尉魏乂率江夏太守李恆攻承於臨湘,旬日城陷,執承送于武昌。敦從弟王廙使賊迎之,害于車中。先是,王敦表疏,言旨不遜,叡以示承曰:「敦言如此,豈有厭哉?」對曰:「陛下不早裁之,難將作矣。」敦惡之。襄陽太守周慮襲殺甘卓。

王敦は、安南將軍・甘卓を召し、譙王の司馬承を軍司に転じさせた。だが2人とも王敦に従わなかった。王敦は、從母弟で南蠻校尉の魏乂に、江夏太守・李恆を率いさせ、臨湘で司馬承を攻めた。10日で城は陥落し、王敦に逆らった司馬承は、武昌に送還された。
王敦の從弟・王廙は、賊を車に迎え入れてしまい、殺された。
これより先、王敦は表疏した。その言葉づかいは不遜だった。読んだ司馬睿は、いちおう承諾した上で、言った。
「王敦よ。あなたはこんな(不遜な)文書を提出した。私に対する嫌がらせか
王敦は答えた。
「陛下は、自分の決裁が遅いのを、私の文章のせいにした」
王敦は、司馬睿を憎んだ。
襄陽太守の周慮は、司馬睿に味方した甘卓を襲い殺した。

叡畏迫于敦,居常憂戚,發病而死。子紹僭立,改年日太寧。

司馬睿は、王敦を「畏迫」して、いつも気に病んだ。司馬睿は、発病して死んだ。司馬睿の子・司馬紹が僭立し(明帝)、年号を「太寧」と改めた。

『晋書』の呪縛を外すべきかも。惨めな末路の「中興の祖」って、格好つかないよな。司馬睿は、後漢の光武帝と比較されても、文句言えないわけだしね。皇帝を名乗ったからには。