表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

11)孫恩の次は、桓玄

海に逃げるという反則技を使った孫恩。まだ五斗米道は、東晋を苦しめます。

孫恩の大胆な迂回

孫恩在海,妖眾轉複從之。既破永嘉、臨海,複入山陰。謝琰戰歿。於是建業大震。遣冠軍將軍、東海太守桓不才,輔國將軍孫無終,廣陵相高雅之等東討恩。吳興太守庾恆慮妖党復發,大行誅戮,殺男女數千人。孫恩複破高雅之于余姚,雅之走還山陰。元顯自為後將軍、開府儀同三司、都督十六州,本官悉如故;封子彥章為東海王,食吳興四萬餘戶,清選文學臣僚,吏兵一同宗國。

孫恩が海に逃げると、妖眾は従って海に行った。
孫恩は、永嘉郡や臨海郡を突破して、ふたたび山陰(会稽)に入った。謝琰が、戰って歿した。ここにおいて、建業は大いに震撼した。
冠軍將軍・東海太守の桓不才と、輔國將軍の孫無終と、廣陵相の高雅之らが、孫恩を討ちに東した。呉興太守の庾恆は、妖党がまた復活するのを恐れて、大いに誅戮をした。庾恆は、男女數千人を殺した。 孫恩は、高雅之を余姚で破った。高雅之は、逃げて山陰に戻った。
司馬元顯は、みずから後將軍となった。司馬元顯は、開府儀同三司、都督十六州となり、もとの官位は全て継続した。
司馬元顯は、子の司馬彦章を東海王に封じて、食吳興四萬餘戶とした。東海国のため、文學の臣僚を清選し、吏兵は宗國とまったく同じとした。

孫恩浮海奄至京口,戰士十萬劉牢之隔在山陰,眾軍懼不敢旋,恩遂徑向建業。德宗惶駭,遽召豫州刺史司馬尚之。于時中外驚擾,而元顯置酒高會,道子唯日祈于鐘山。恩來漸近,百姓忷懼。尚之率精銳馳至,徑屯積弩堂。恩時沂風,不得疾行,數日乃至白石。恩本以諸軍分散,欲掩不備,知尚之尚在建業,複聞牢之不還,不敢上,乃走向鬱洲。恩別帥盧循攻沒廣陵,虜掠而去。

孫恩は、海路から京口に回った。東晋の戰士10万人と劉牢之は、遠く山陰に隔たっている。劉牢之の率いる東晋軍は、懼れて京口に戻ろうとしない。孫恩はついに建業に向った。司馬德宗は惶駭して、豫州刺史の司馬尚之を召し返した。
このとき中外は驚擾した。だが司馬元顯は、高らかと酒宴を開くだけだった。司馬道子はただ鐘山で東晋の無事を祈った。

「道子」って、司馬道子のことでいいのか。まだ生きてる?

孫恩が建業に接近すると、百姓は忷懼した。司馬尚之は、精鋭を率いて到着した。道には弩堂をスタンバイした。舟で進む孫恩は、逆風を受けて、移動スピードが落ちた。數日して孫恩は、白石に到った。孫恩は、東晋の諸軍が分散しているため、備えなきを奇襲しようと思った。
だが孫恩は、司馬尚之が建業にいると聞いた。また劉牢之が建業に還ってないと聞いた。孫恩は海から長江を遡って建業を攻めずに、鬱洲を目指して逃げた。

「不敢上」は、海路から長江を遡らなかった、ってことか。司馬尚之が建業を守っていたくらいで、なぜそんなに弱気になったのだろう?守備兵ゼロだと期待したのか?見積もりが甘すぎる。

孫恩の別働隊の盧循は廣陵を攻め落とした。虜掠して去った。

司馬元顯の退場、桓玄の登場

桓玄聞孫恩之逼也,乃建牙戒嚴,表求征討。時恩去未還,玄表複至,元顯等大懼,急遣止玄。庾楷密使自結於元顯,說玄大失人情,眾不為用,若朝廷遣軍。已當內應。元顯得書大喜,遣張法順謀于劉牢之,牢之同許焉。於是徵兵裝艦,將謀西討。德宗改年曰地興,以元顯為大都督討玄。玄軍至,元顯不戰而敗,父子並為玄所殺。後改年為大亨。

桓玄は、孫恩が逼っていると聞き、建牙戒嚴、孫恩を征討したいと上表した。孫恩は去って、建業を狙っていないのに、桓玄はまた征討を上表した。

「孫恩とかどうでもいいから、オレに兵権をよこせ」という物言いか。

司馬元顯らは、桓玄を大いに懼れた。急いで桓玄を制止した。
庾楷はひそかに司馬元顯に使者を送った。
「桓玄は大いに人情を失っています。軍を用いることはできません。もし朝廷が軍を送れば、桓玄を裏切り、東晋方に内応するでしょう。桓玄を懼れなくても平気ですよ」
司馬元顯は、この書状をもらって大いに喜んだ。張法順に、劉牢之と作戦を立てさせた。劉牢之は同意した。於是徵兵裝艦,將謀西討。
東晋は「地興」と改元した。司馬元顯は大都督となり、桓玄を討った。桓玄の軍が到ると、司馬元顯は戦わずに敗れた。司馬元顯は、父子ともに桓玄に殺された。のちに「大亨」と改元した。

桓玄が勝っちゃったじゃないか。『魏書』の桓玄伝を読みたくなってきた。あ、ちがう。「島夷桓玄」というタイトルでした(笑)


天興六年十月,德宗遣使朝京師。德宗封桓玄為楚王,玄尋逼德宗手詔禪位。德宗出居永安宮。既受禪,封德宗為南康平固縣王,居之尋陽。天賜元年,德宗在姑熟,二月,至尋陽。其彭城內史劉裕殺玄除州刺史桓脩,與劉毅等舉兵討玄。玄敗走尋陽,攜德宗兄弟至於江陵,又走荊州。荊州別駕王康產、南郡相王騰之迎德宗入南郡府。桓玄死。玄將桓振複襲江陵,斬王康產及騰之。將殺德宗,玄揚州刺史、新安王桓謙苦禁之,乃止。

天興六年10月、司馬德宗が、北魏の都に朝貢した。
司馬德宗は、桓玄を楚王に封じた。桓玄は、司馬德宗に迫って、手ずから禪位の詔を書かせた。司馬德宗は建業を出て、永安宮に移った。桓玄に禅譲した後、司馬德宗は、南康郡の平固縣王となり、尋陽にいた。

いちおう再確認すると、禅譲させられた司馬徳宗は東晋の安帝だ。

天賜元年、司馬德宗は姑熟にいた。2月、尋陽に到った。彭城内史の劉裕は、桓玄が任命した徐州刺史の桓脩を殺した。劉裕は、劉毅らと挙兵して、桓玄を攻撃した。桓玄は尋陽に敗走した。
劉裕は、司馬德宗の兄弟を保護して、江陵に移して荊州に逃がした。荊州別駕の王康產と、南郡相の王騰之は、司馬德宗を迎えて、南郡の府に入れた。
桓玄が死んだ。
桓玄の將・桓振は、江陵を襲った。桓振は、王康產と王騰之を斬った。まさに桓振が司馬德宗を殺そうとしたとき、桓玄が任命した揚州刺史・新安王の桓謙が止めた。

時盧循執德宗廣州刺史吳隱之,自號平南將軍、廣州刺史,令其党徐道覆據始興,餘郡皆以親党居之。德宗複僭立於江陵,改章義熙。尚書陶夔迎德宗達於板橋,大風暴起,龍舟沉浚,死者十余人。德宗發江陵至尋陽,其益州刺史毛璩、參軍譙縱反,攻涪城,克之,遂以益州叛德宗。德宗發姑孰,還建業。六月,太祖遣軍攻德宗钜鹿太守賀申,申舉城降。

このとき盧循が、東晋の廣州刺史の呉隱之を捕えて、みずから平南將軍、廣州刺史を名乗った。盧循と、その郎党の徐道は、始興郡に拠った。その他の郡も、盧循の与党がいた。
司馬德宗は江陵で、ふたたび東晋皇帝に僭立され、「義熙」と改元した。尚書の陶夔は、司馬德宗を迎えて、板橋に達した。大風がいきなり起こり、皇帝の舟が沉浚した。死者が10余人出た。

司馬徳宗が、正統でないのに皇帝になった。天が抗議した。

司馬德宗は、江陵を発して尋陽に到った。
東晋の益州刺史の毛璩と、參軍の譙縱が、東晋に叛いた。毛璩と譙縱は、涪城を攻め落とした。益州は、東晋から離反した。司馬德宗は姑孰を発し、建業に還った。
6月、太祖は東晋の鉅鹿太守の賀申を攻めた。賀申は、城をあげて降伏した。

やっと東晋に手を出せるほど、北魏が大きくなりました。


次回は最終回。東晋皇帝が、2人殺されます。