表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

8)謝安と司馬道子の記述量

桓温の禅譲が秒読みです。

謝安の焦らし作戦

昱死,子昌明僭立。徐州小吏盧悚與其妖眾男女二百,向晨攻廣莫門,詐言海西公還,由萬春、雲龍門入殿,略取三廂及武庫甲仗。時門下軍校並假兼,在直吏士駭愕不知所為。遊擊將軍毛安之先入雲龍門討悚,中領軍桓秘、將軍殷康止車門入,會兵攻之,斬五十六級,捕獲餘黨,死者數百人。前殿中監許龍與悚皆遣人至吳,詐迎奕,奕不從。

司馬昱が死ぬと、子の司馬昌明が僭立した。

孝武帝の司馬曜である。北魏に「曜」という君主がいるのか?忌まれてる。

徐州の小吏・盧悚が、妖眾男女200とともに、廣莫門に詰め掛けた。詐って、海西公(廃帝・司馬奕)が皇帝に戻ると言いふらした。萬春門、雲龍門に行き、入殿した。盧悚たちは、三廂および武庫の甲仗を奪った。
門下の軍人や役人たちは、駭愕して、どうしていいか分からなかった。

桓温の廃立が非常の行動で、人心が追いついていないことが分かる。『魏書』は東晋の皇位継承がグラグラであると強調した。

遊擊將軍の毛安之は、まず雲龍門に入って、盧悚を討った。中領軍の桓秘と、將軍の殷康は、車門を封鎖した。妖衆と白兵戦になり、56の首を取って、残りを捕えた。死者は數百人。
前の殿中監・許龍は、盧悚を支持した。許龍は呉郡に人をやって、ウソをついて司馬奕を迎えようとした。司馬奕は、誘いに乗らなかった。

昌明改年曰甯康,征溫入朝,又詔溫無拜。尚書謝安等於新亭見溫,皆敬。溫拜昱墓,得病還姑孰。溫自歸寢疾,諷求備物九錫。謝安已令吏部郎袁彥伯撰策文,文成,字輒勾點,令更治改。既屢引日,乃謀于尚書僕射王彪之,彪之雲:「聞彼病日增,亦當不復支久,自可小遲回其事。」安從之。溫死。

司馬昌明、「甯康」と改元した。
桓温は入朝しようとしたが、詔により拝謁できなった。尚書の謝安らは、新亭で桓温に会い、敬い倒した。

もし桓温が入朝してしまえば、禅譲を迫る。だから謝安は、皇帝の司馬昌明と桓温を隔離している。『晋書』のままの史実でも、『魏書』が主張したい、東晋の君主権力の弱さが示される。両書に違いが少ない。ぼくとしては面白くない。

桓温は司馬昱の墓参りをした。桓温は病気になり、姑孰に還った。桓温は寝たきりになった。九錫を欲しがった。

九錫をもらうことが、禅譲のステップとなる。この道筋を作ったのは、王莽だ。

謝安は、吏部郎の袁彦伯に、桓温に贈る九錫のために、策文させた。文が完成すると、謝安は字句に訂正を入れて、直させた。リードタイムが長引いた。謝安は、尚書僕射の王彪之と、作戦を立てていた。
王彪之が曰く、
「桓温の病気は、日増しに重くなり、先が短いようです。ちょっと九錫文の完成を遅らせれば、ソノコト(禅譲)は回避できますよ」
謝安は、意見を採用した。桓温が死んだ。

幻の肥水の戦い

苻堅遣苻雅率將王統、朱彤、楊安、姚萇步騎五萬向駱谷,伐昌明秦州刺史楊纂。纂請救于梁州刺史楊亮。亮遣參軍蔔靖赴之,敗走。朱彤至梁州,亮望風奔散,於是堅遂有梁益二州。昌明上下莫不憂怖。

苻堅遣苻雅率將王統、朱彤、楊安、姚萇步騎五萬向駱谷,伐昌明秦州刺史楊纂。纂請救于梁州刺史楊亮。亮遣參軍蔔靖赴之,敗走。朱彤至梁州,亮望風奔散。
苻堅は、梁州と益州の2州を、東晋から奪った。東晋では、皇帝から奴隷まで、憂怖しない人はいなかった。

東晋に不利なことは、余さず『魏書』が拾います。例により、戦闘は訳さず。


建國三十九年,昌明改年曰太元元年。太祖七年,苻堅大舉討昌明,令其國曰:「東南平定指日,當以司馬昌明為尚書僕射,可速為起第。」堅前後擒張天錫等皆豫築甲宅,至而居之。堅至淮南,大敗奔退。

建國三十九年、司馬昌明は、「太元」と改元した。
太祖七年、苻堅は大舉して、司馬昌明の討伐を試みた。苻堅は、領国に命令を下した。
「東南を平定したあかつきには、司馬昌明を前秦の尚書僕射とする。速やかに司馬昌明が前秦で住む家を作っとけ」
このころ苻堅は、前涼の張天錫らを捕えて、住宅を築造してやった。前秦に敗れた国主は、ここに住まわされたのだ。
苻堅は淮南に到ったが、大敗して奔退した。

肥水の戦いだ。苻堅が負けたことは、書かれている。ウソはない。だが分量が不公平である(笑)まるで苻堅が、9割9分まで圧倒したようだ。謝氏は桓温の引き立て役でしかなく、肥水の周瑜だとは分からない仕組みだ。
もし北魏自身が東晋に敗れていたら、「お味方の不利により、自主的な撤退」とか書かれるんだろうなあ。


是時,昌明年長,嗜酒好內,而昌明弟會稽王道子任居宰相,昏[QBDM]尤甚,狎昵謅邪。于時尼娼構扇內外,風俗頹薄,人無廉恥。左僕射王珣兒婚,門客車數百乘,會聞王雅為太子少傅,回以詣雅者半焉。雅素有寵,人情去就若此。皇始元年,昌明死,子德宗僭立。

昌明は大人になり、酒と女を嗜んだ。代わりに、司馬昌明の弟・會稽王の司馬道子が、宰相の仕事をしたが、血迷った近臣政治だった。
司馬昌明は、尼娼を囲い込み、風俗は頹薄となり、人は廉恥をなくした。左僕射の王珣は子が司馬道子と結婚したので、門客車が數百乘も群れた。會聞王の司馬雅は太子少傅だが、司馬雅に会いに来る人は、王珣の半分である。王雅は、司馬道子に寵用された。天下の人心は、このようにして司馬道子から去った。
皇始元年、司馬昌明が死に、子の司馬德宗が僭立した。

司馬道子は、君主や皇族の権力を強化しようとしたんだろう。孫権の晩年に近い。失敗して、臣下に詫びたが。
『魏書』は、皇帝権力が弱ければ、嬉しがって批判する。皇族が権力を集めれば、ここにあるように批判する。何がどう転んでも、非難するのだ。
次に立った 司馬徳宗は、安帝である。

司馬昌明の暗殺

初,昌明耽於酒色,末年,殆為長夜之飲,醒治既少,外人罕得接見,故多居內殿,流連於樽俎之間。以嬖姬張氏為貴人,寵冠後宮,威行閫內。于時年幾三十,昌明妙列妓樂,陪侍嬪少,乃笑而戲之雲:「汝以年當廢,吾已屬諸姝少矣。」張氏潛怒,昌明不覺而戲逾甚。向夕,昌明稍醉,張氏乃多潛飲宦者內侍而分遣焉。至暮,昌明沉醉臥,張氏遂令其婢蒙之以被,既絕而懼,貨左右雲以魘死。時道子昏廢,子元顯專政,遂不窮張氏之罪。

もともと司馬昌明、酒色に耽った。
死んだ年は、夜更かしして飲み明かす日がほとんどで、しらふの日が少なかった。外朝の臣下たちは、政堂にいては司馬昌明に会えない。内殿に、人があふれた。酒樽と料理の間に連なって、官人たちが裁可を仰ぎにきた。
嬖姫の張氏は、貴人に昇格して、後宮でいちばんの寵愛を受けた。張氏の権威は、後宮で鳴り響いた。張氏が30歳を越えると、司馬昌明は妓樂に浮気した。司馬昌明は、ふざけて張氏に言った。
「あなたはもう年増だから、貴人から廃そう。オレは若い女が好きだ」
張氏は潛かに怒った。
司馬昌明は、張氏の怒りを知らずに、ますます楽しんだ。夕方、司馬昌明はひどく酔っていた。張氏は、司馬昌明の周りにいる、宦者や内侍にも、たっぷり酒を飲ませて、司馬昌明から隔離した。日が暮れると、司馬昌明は、酔いつぶれた。張氏は、自分の女奴隷に命じて、司馬昌明に覆いかぶさらせた。司馬昌明が息をしていないので、張氏は懼れた。左右の人は、司馬昌明が魘死したと言わせた。
司馬道子が病気で昏倒していたので、子の司馬元顯が專政していた。司馬元顯は、張氏の罪を追窮しなかった。

「魘」とは、押さえつけられたように、うなされること。悪い夢で、うなされること。実は窒息させられたのが、悪い夢に苦しんだとも、解釈できなくもない死因判定である(笑)


次は、安帝の時代です。東晋皇帝、あと2人。